東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

葫蘆島から日本へ

春になると「日本に帰るから広場に集まれ」と言われてまたみんな集合しました。 みんな骨と皮ばかりに痩せこけて、途中で脱落していった方々もありました。旦那さんを亡くして、好き好んでではなく、生きるためにやむを得ず満州人と結婚 […]

満州で迎えた敗戦

ラジオの前に、私たちきょうだいみんなここに正座して、天皇陛下の玉音放送を聞いたのは小学校5年生の8月15日のことでした。「ああ、日本は負けた、負けたー」って、子ども心にも悔しく、泣いた覚えがあります。 父は終戦の1年前に […]

農業で財産をつくる

私の生れる前の話になりますが、私の母はふみ子、父は久志といい、父は米川狼河原(おいのがわら)綱木(つなぎ)の沢の小野寺家の農家の3男として生まれました。屋号は「曲家(まがりや)」といいます。一番上の兄が秀吉といい、体格が […]

新制中学校に進学

私は米川小学校の2学期から6年生に編入し、新制中学校に進学しました。日本に帰ってきてからは家に収入もなく貧乏でしたので、夏は藁草履、冬は藁で編んだつまごを穿いて学校に通いました。仙台への修学旅行も250円~300円の負担 […]

終戦の前日に防空壕を掘る

漁に出始めたのは昭和17~8(1942~3)年だけど、戦争の影響は別になかったね。戦争は南方だべ。行くのはあんまり南方の方さ行かねえから。 でもね、最後、ここで終戦の前の日に、ここが空襲くったのね。そしてね、伊里前(いさ […]

高台移転

今度、寄木仮設のすぐ上がり口に家を建てたんで、今度そこに入るんですよ。やっぱり、私は、このようになってみんな冗談言ったりするから、次に住むところは仮設のすぐ脇に並んでいるから、仮設のみなさんともしゃべったりすればいい。だ […]

カツオ船内の生活

船員は3つに分かれるのね。若い人たちはご飯組。船首の方にいるのね。魚を捌いたりだの、いろんなことやるから。船首側に寝室があるの。あとは、漁労長や船長さんたちがいる舵取る機関場、年寄りのいる船尾(トモ)と3つね。船尾の人た […]

炭焼きの仕事

北海道から帰ってきてから、炭焼きの仕事を始めました。炭焼き窯も2つくらい持ったりして、夜通し働いて。なぜなら炭焼きの仕事は、きついのですが、働けば働いただけ稼げたのです。畑仕事で日当をもらっている身分では、雨が降ったら仕 […]

満州の小学校

そして翌年昭和10(1935)年3月20日、奉天、今は瀋陽っていいますけど、そのそばの鉄嶺(てつれい)(=現中華人民共和国遼寧省)というところで、長男として私が生れました。けれど、3歳で哈爾濱と長春の間にある徳恵(とっけ […]

外国人のお嫁さんに日本語講座

平成6~7(1994~5)年頃、生活が安定してきた頃から、登米市の日本語講座に関わるようになりました。東和町には、残留孤児のお世話をする人の紹介などで、中国からきたお嫁さんがいました。日本語がわからないのでは大変だと思い […]

ホタテ養殖

今は養殖の中心はワカメだ。ホタテの場合は、大きい船ないとできない。重いものぶら下げてるから、大きくないと網を巻き上げた時船が横向いてしまう。ほんとは今年の5月ごろできるって言ってたんだけど、今造船中なんだ。1月に三重のヤ […]

サンマ漁

サンマは今のように電気でおびきよせる前は、人力で「刺し網」やったの。そっち側とこっち側で6人くらいこう、並んでて、「イチニノサン」って掛け声かけて、息を合わせて手で網に掛かったサンマを網から落とすのね。水面に浮く方の「浮 […]

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