東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

半農半漁

私は昭和7(1932)年11月23日、志津川町(現宮城県本吉郡南三陸町)戸倉(とぐら)に生まれました。実家は祖父母、両親と姉の6人家族でした。生まれてから今回の津波に遭うまで、ずっとその家で暮らしてきたのです。 戸倉は半 […]

宮城の地場産業・養蚕

父は明治19(1886)年に私同様、鱒淵に生まれましたが、16~7歳で三井物産に入社し、カナダに渡りました。 というのも、三井物産は宮城県の地場産業として栄えていた養蚕で、カナダと生糸の取引をしていたからです。カナダでの […]

水戸辺川上流津波最終到達点

まず、私が新井田館跡発掘作業でお会いした田中則和先生に御礼の言葉を申し上げたいと思います。 先生には、私の慶長三陸津波の話を聞いて「力になりたい」と言ってくださり、私と共に自宅のありました戸倉在郷地区の海岸より歩いて2時 […]

敗戦、そして捕虜に

私のいた中隊は、ビルマへの移動中、ランソン、タピオ、ウォンビツに達したところで敗戦を知りました。前線にいたので、情報が伝わるのが遅く、8月15日に敗戦を知ることは出来ず、翌日に暗号でやっと伝わったような状況でした。 日本 […]

葬儀の風習

米川では人がなくなると、お寺で葬儀をしたあと、棺台にひつぎを乗せて野辺の送りをしたものでした。昔は土葬でしたので、亡くなった人が出ると、村の人が桶のような形の棺を亡くなった人の身体の大きさに合わせて杉の木で作り、その中に […]

寄木の地名の言われ

この寄木(よりき)という地名は、台風でたくさんの木がここの浜さ、全部寄り上がって(打ち寄せられて)山になってたと。その前に、田束山(たつがねさん)ていうのがあるんですけど、あそこに住んでるお坊さんがお寺を造りたいというこ […]

2つの契約講

この辺りでは「契約講」が2つあるんです。昔から伝わっている契約講は、昔からいる財産持ってる人たちで、入るには何十万ですよ何百万ですよってお金が必要なのね。そんな大金を出すには、自分の生活するのさえ大変な時代だから、加入し […]

ワカメ養殖

ワカメ養殖を始めたのは私たち一番早いのね。その頃私たちの漁協の、いま青年部っていうけども、その頃は研究会というような名前で、私たち年代から下のほうの人たちで会をつくって、ワカメの養殖の始まりをつくって今に至っている。もと […]

屋号

うちの屋号は「いかざ」というんだ。平仮名で「いかざ」。漢字で書いてもいいんだよ。烏賊(いか)という字、漢字で書くの大変だ。イカ釣り船が、そこさ来て、船(ふね)繋(つな)でおいだ場所だから、「いかつりざ(烏賊釣座)」と最初 […]

ささよと漁師の暮らし

漁師の暮らしの流れが「ささよ」の中にあるね。中学校3年生の男の子が大将になって、もらったご祝儀をあとの子どもだちに分け与えるしきたりだね。親たちは絶対タッチしないって、昔からそういうしきたりで何百年もやってきた。1回公民 […]

海苔養殖の研究

親父が早く亡くなったから、私は遠洋漁業やめて帰って来て、漁は沿岸だけにして、その合間に、最初は海苔をやったのね。ここほら、波穏やかだから、この辺一帯、全部海苔網だったの。竹を立てて、海苔網張って。 海苔を始めるのに、最初 […]

3.11被災

昔からいうんだ。津波のときに、何か忘れ物してきた、って言って戻った人に、助かった人いない。「ほら、逃げよう」って言って逃げるのに、「薬持ってきてけす」って言う人がいる。なに、薬、取りに行くっていうわけさ。「流されて死んで […]

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