東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

3.11被災

震災当日は作業小屋にいました。朝から、よそのお母さんたちと4人でワカメの作業をしていました。 あの時は、お昼食べて2時だから、ちょうど練炭とストーブの一番燃えいいときですから(笑)。2時46分だったかにありました。地震が […]

町村合併後の伊里前契約会

歌津町でいたときは、年に2回、契約長会議をやっていました。歌津町から町の三役のうち1人が出席するかして、各契約会の代表が出席しました。 今の保健センターのところにあった役場に契約会の誰が行っても、町長がいると、「おーい、 […]

魚竜太鼓

私が契約会をやめて息子の結婚式をしたときには、家の前がお祭りみたいだったよ。ホテル観洋で結婚式挙げたんだけど、230人くらい集まりました。観洋がいっぱいになりました。獅子舞が2頭出て、伊里前契約会にある魚竜太鼓のメンバー […]

伊里前契約会の歴史

今から、伊里前の契約会の歴史をぐるっとお話します。伊里前の歴史の中に定置網の漁業権があったんです。昔のこと、私が会長になる何代も前のことで、その漁業権を当時県に150万円で売却したんです。そのお金は、その金額のまま、漁業 […]

ゲンジボタル

この辺りでは、昭和30年には開田政策により、もともと煙草地帯だったのを水田に切り替えるため、PCB系の猛毒の除草剤をばらまき、水が汚染されてホタルの数が激減しました。やがて作った米が余る時代になり、昭和45年には減反政策 […]

漁業協同組合

協同組合は中学卒業の前からずっと父が入っていました。親父の代に協同組合法ができてから、組合が3回名前が変わったんですね、最初が『歌津全町漁業協同組合』合併してから『歌津漁業協同組合』今度が、『宮城漁業組合歌津支所』とね。 […]

及川甚三郎

日露戦争が終わった明治38年、田舎は過疎化して農村は疲弊しており、この地域一帯は貧しかったのです。というのも、戦争中に国益を上げることを重視し、都市化が進行して子供も戦争にとられたからでした。 ここでリーダーとして立ち上 […]

米作り

米作りでは自分のところだけでなく、他人から田を借りて5~6ヘクタールもの請負耕作をしました。その当時トラクターはなく、テーラーという耕運機で畑を耕したものです。牛も5頭飼って乳搾りをしたり、「上台ファーム」の自動車を買っ […]

海苔

海苔とワカメは朝採りに行くんです。自分の代からは養殖をやってて。海には自分の領分でやります。 海苔はこのへんだと塩釜に委託して、種を網につけるんです。冷凍網って言ってそいつを冷凍しておいて、11月に海に流すんです。そうす […]

サンマ漁

サンマを獲るのはあっちまで行くんです。千島列島。四国の香川の漁船会社に11年くらいいたのかなぁ。 23、4歳のときかな。どうだったか、証拠も何も流されてわからないんです(笑)。 香川に行くのは年に2回ぐらいです。4月に港 […]

サケマス漁

それで今度は、サケマス漁に行ったんです。当時この辺のでは、家族から3人位漁へ行くと、家が1軒建ったんです。サケ・マスに4月から行って7月の中頃帰ってくるんです。3カ月くらいです。漁に1回行くだけで結構大金が貰えるんです。 […]

農家

私の生家は350年前から14代続く農家です。名字が無いのが当たり前の、名前だけの時代からありました。鱒淵という地域は、今は300軒くらい家がありますが、古文書の上では18屋敷から始まったとされ、我が家はその18軒のうちの […]

Navigation

Please use the navigation to move within this section.