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私が子どもの頃は、今より雪が多かったので、ちょっとした坂なんかは、ソリを使って滑っていましたね。それから、もっと面白い遊びはこうです。田んぼに水が張っていると、寒さも厳しかったから、氷が張るわけです。そこをスケートするんです。今のようなスケートじゃないんですよ。走るの(笑)。
スケートって言っても、昔はね、スケート靴を持ってる人なんてよほどの財閥ですよ。それでね、私たちは長靴に足駄(下駄に似ているが下駄より歯の高さが高く、鼻緒が前寄りにつけられ、
引きずるように履くのではねが上がらなかった)を組み合わせてやったんです。
まず、足駄(あしだ)っていうのはね、底が下駄と違って丸くなってるんです。この丸くなったところに、スケートの刃が入るわけです。鎹(かすがい)ってあるでしょ。「子は鎹」の。それをここにブツ(打つ)わけです。長靴に下駄の緒を結わえてくっつけます。下が鎹だから、溝もなにもないんです(笑)。
だから足で踏ん張るわけにはいかないわけで、スキーみたいに、杖もつくんです。杖は竹に古釘の細い釘を刺して作りました。
子どもは作り方は自然と覚えるもんです。みな自分で考えて自分で作り出すんですよ。簡単だから。そんな風にちびた足駄の歯を抜いては作り、凍った田んぼや池に行ってはスケートするんです。面白い遊びでしたよ。
中には排水されて水のない田もあったんですよ、そこをスケートしたさに、「凍らすべ」って、自分たちでわざと掘をせき止めて水を入れて。怒られるわね(笑)。
スキーなんかも、竹を割って、火であぶって曲げた竹スキーってやつを、子どもたちはみな、自分で作りました。竹馬だって全部自分で作る。なにせ売ってないから! 竹馬はね、誰でも作れるんです。
昔はコマも作りましたが、わりあい簡単なんですよ、あれは。材料は「いなご」というクリの木で、稲を乾かすときにかける「ほんにょ」に使う木ですが、それを切って作ります。ただ器用でないとね。学校でも本当は作らせればいいと思うんですが、怪我させるのを怖がって作らせませんね。私たちは、小刀やノコギリやナタでもなんでも、平気で使っていました。
夏の遊びもいろいろですよ。旧迫川(はさまがわ)で水遊びです。今みたいに綺麗な川ではありませんでしたし、学校の生徒1クラスの30人も40人もの生徒がいると、砂だらけ、泥だらけになってるのね(笑)。今は汚染物質だなんだって言って泳げないけど、当時は各浜にみな海水浴場があったんです。志津川あたりでは、荒島(ありしま)だの、防波堤の外で泳いだものです。昔の人たちは、少々のごみなんか、なんとも思わないんです。川だって泥水でもいいんだから。そのぶん、みんな丈夫でした。
今はなんでも売ってるから、買ってくれば用が足せるけれど、昔は遊びの道具は、こんな風に自分たちで作ったんです。
戦争当時は、男の人手が足らないっていうんで、子どもたちから女の人たちまで、「なければないで、なんとかする」、みんなこういう自給自足を日常的にやってきたわけです。だから私たちはいろいろ災害があっても強いんです。
「風の中、土に悠々と立つ──銀行マンの見た登米・志津川」須藤衛作さん(仮名)
[宮城県本吉郡南三陸町志津川]昭和7(1932)年生まれ
戦争中は物が無かったから、私の家は農家だから、できたものは皆で分けっこして、買って食べようと思ったことはありません。自分で採った物を少しずつ皆で食べました。分けてね。果物はその時分は、山で木の桃を採ってきたり、いろいろなを植えたりしました。当時は、「何々を食べたい」とかは、思いませんでした。
お母さんは、一生懸命お努めして、子どもたちに食べさせてくれました。干し柿は、そのままでは食べられない渋柿を食べる調理法の工夫だね。皮をむいて干すでしょう? 干して、粉が上がったら、裂いて大根おろしにしたり、さつまいもだって干して干し芋を作ったり、生の柿を潰して粉を入れてかき餅にして食べました。
米を炒って香煎みたいにして食べたこともあります。蕎麦粉に味噌と出汁を入れて、鰹節なんかも入れて練って囲炉裏で丸く焼くんです。家で採った蕎麦だから美味しいの。朝早く起きて、おやつになるように作って、あれも美味しかった。
なんでもやりました。今、買って食べるのは昔のと味が違うね。自分たちで採って、自分たちで手作りです。
後は、サトウキビ、沖縄で売ってるね? ああいうのも、私たちも作りました。あの時分は砂糖もないから、切って煮出してザルにあげて、その汁を煮詰めるんです。1キログラムの水を200グラムくらいまで煮詰めるんです。そうすると甘味がウンと出てくるの。そういうので、お正月にお餅を食べたりしました。皆で少しずつ分けてね。買って食べるということがないからね。
戦争が始まったのは、私が19歳の頃です。その時はみんな挺身隊っていうのに行ったんです。私たち女性も兵隊みたいに引っ張られて、女学校もです。
私は、引っ張られずに家にいて、防空壕を掘って穴さ隠れたり、山さ隠れたりしました。男の人は行ってしまうから、艦砲射撃が来るまで、夜は、竹槍で「兵隊さ殺せ」とか言われて見張りもしました。
6尺くらいの長い竹をね。戦争中女性はね、どこで兵隊さんが来るかわからないから、「来たらば、この竹槍で兵隊さんを殺せ!」なんてね。
私たちは、蕎麦だって、とうもろこしだって、みんな作ったんだから。粟もヒエも。で、戦争中は「かてご飯」って、豆を入れたり、大根の葉っぱを干して刻んで、炊きこみにしてね。大根の茎からね、栄養にもなるし。今だって食べるには食べられるのよ。今だってやればやれるのよ。ご飯でもなんでもね。粟だのヒエだのは、お餅に入れてね、米がないから、白い餅って食べたことがなかったの。
お正月なんかは、米を挽いて粉にして餅にしてね、それが一番豪華でした。後は、よもぎを採ってきて干して擦って粉にして、それもまた米に混ぜて、もち米に混ぜて草餅にして、そんなのは一番豪華でした。食べられない人もいる時代です。それを作って皆で一緒にね、食べたんです。本当にいろいろなことをしました。今の草餅は色で入れたりして、本当の草では無いからね。