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今思えばね、ほんとに、子どもだったのね。あんたがただって、こういう方と結婚したいっていろいろあるわけでしょう。今のように公務員のところにお嫁に行きたいとか、こういう職業を持った人と結婚したいとか、そんなことはわからなかったの。私は、こんな風に思って暮らしたの。私、牡蠣、大好きでね。いっぱい食べられる舞根(もうね)にお嫁に行きたい、ってそんなこと思ったのね。舞根に行ったら牡蠣いっぱい食べられるな、舞根にお嫁に行きたいな、って思ったのね。
で、あるときに「ワカメの芯抜き」って、ワカメをいっぱい重ねて、芯を抜く作業があったんですよ。10人くらい並んで作業するんです。舞根から来たお嫁さんが来てて、その人とお話したいと思ってたんです。でも、なかなかできなくて、その日ついに隣に来たんです。
いろんな話をしていると、「今頃なあ、おらの母ちゃん、牡蠣剥きにいったべなあ。朝、お婆さんに『いつまで寝てるんだ! みんな船乗って牡蠣剥きにいったんでねえか。早く起きろ!』って2時に起こされるんだ」「ええ~。夜中の2時に?」「うん、2時に。起こされて牡蠣剥きに行くんだ」「この寒いのに?」「んん、この寒いのに2時に行くんだ」それ聞いたとたん「ああ、舞根に行かなくてよかったぁ」って(笑)。とても2時に起こされても勤まんなかった。
お嫁に行ったのは戦後、21歳の時でしたが、その頃も食べ物はあんまりなかったね。でも実家では田んぼもあったから、親はよそに嫁に行った私を案じたって。「私らはこうして食べるべなあ、小鯖さ嫁に行った娘は、何食べさせられっぺなあ、心配したぞう」って。親だもんね。でも、私は「ここでは、こういうもんだ」と思って暮らしたのね。「実家さ行って食べたい」なんて思わないよね。あきらめたのね。
「かてごはん」を食べるからすぐお腹がすくのね。もうすこし食べたいと思ったってざくざく、ざくざくというご飯だものさ、10人で食べるんだもの。もっと食べたいと思ったってもう、鍋にない。
あんなの食べれば、今頃スマートなのさな(笑)。今は気ままして食べ放題。息子が来るたびね、「あんた、また太って。ここ(急な坂)上がったり下がったりできなくなったら、わがんねよ(仕方ないよ)」「なんにも、そんなに太んねえ」「なに? その姿見らい(見てみなさい)。でぐでぐでぐでぐ・・また太ったか」なんて(笑)。怒られっぱなしです。手伝ってもらうから「はいはい」って言うのさ。アハハハ。
この地区は、当時は半農半漁です。うちも田んぼも畑もやって、海では天然のウニやアワビやワカメを獲って暮らしていました。当時はまだ養殖はない時代です。
「かっこ船」っていう木を合わせた船に乗って、箱メガネで水中を覗いて竹竿(鉤)で獲る時代です。
うちはごく普通の家庭ですね(笑)。親に怒られるのはしょっちゅうでした。
半農半漁だから、米、麦、豆を作って、差網や延縄で、アイナメ、ドンコ、イカ、タラなどの魚も獲ってたわけです。当時は近隣に市場も、冷蔵庫もない時代です。志津川には市場がありましたが、バスを乗り継がないと行けない場所で、そんなことをしていたら魚が腐ってしまう。傍にある魚屋に売るんです。いくら持って行っても安くてね。お米の買えない時代でした。魚屋さんもその日のうちに売ってしまうということです。魚を売ったお金は生活費になりました。PTAなど、なにかと現金が必要だったのです。
小学校の5~6年から家の手伝いをさせられていましたよ。私は実は、小学校3年生の時に耕運機を操縦していたんです。天然ワカメのほかに、カジメという海藻があって、それにも開口があるんです。その日には、船でうちのじいさんと親父が海に採りに行くんですが、大量に採れるので、一回満船になったら、一度陸に揚げにくるんです。ボーンと置いて、また漁にでるわけ。
陸にいる私たちは、大量のカジメを干し場に持ってかなきゃならない。普通はリヤカーで持っていくんだけど、うちには耕運機があったらからそれ回していったんです。ばあさんと私が、船から下ろしたカジメを耕運機で干し場まで積んで、行ったり来たりしたわけです。
駐在さんに見つかって怒られましたけど(笑)。それでも昔の駐在さんって言うのは今みたいには怒んないですからね。子どもに耕運機って、させる方もさせる方ですが(笑)、私はそういうのが好きでしたね。そんな風に家のことをいろいろと手伝ったりしていましたね。