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ワカメの養殖は被災したけれど、この19日にね、面接があって、本当に養殖を再開したい人は、場所与えてくれるみたいです。一応はワカメの種付けてて、来年はみな共同でやりたいけど、1回にはできないですよね。全部用意すると、何千万もかかるので。それでも旦那はやる気でいるね。
収穫量の見込みは、海が汚れてるけど、状況はいいみたい。畑でもそうだけど、海が底からかき回されて栄養が海の中に出ているらしいです。だから、今まで養殖を10台やってたところが、5台ぐらいで、今までの量ができるって、大学の教授が来て言っていたらしいです。
問題は、現金なのね。今まで漁協に貸しがあったんだけど、現金だから、どの程度やるかが問題です。養殖をやったら何百万もかかるからです。漁業組合では、物を売るのは現金取引ですが、そのお金が後から戻って来るけど、何年先に戻ってくるかは分からない。そうなってくると生活もあるし。
資金は漁協にいちおう当てがありますが、この後、来年か再来年からは、個人で養殖するのは個人がお金を出すことになります。補助は出るけど、国でいつ補助を出すか、2年先か3年先かは分かんないんですね。だから、先に自分でお金を払っておかないと、仕事ができないんです。ここは漁協じゃなくて、個人で払うんです。会社組織にすると、やっぱりあまり良くないって言う人もいます。
早くみんなに家を建ててもらいたいですね。そして漁業に復興してもらいたい。
歌津はここはアワビ漁が有名なんです。だから1日も早く、いくらか後で払ってもいいから、早くアワビ放流して、アワビ養殖でまた盛り上げていきたいですね。ワカメ、牡蠣、ホヤ、ホタテ、あとウニ、ここはほとんどそれで食べているので。それから、大きな船も要りますね。今みんな焼いて無くしてしまっているから、そういう人たちも働きに出るようになればね、良いと思います。国だって、私たちが税金払えるようになればいい思うんですよね。私らの考えはこうです。
とにかくここは、漁業が復興しないと、収入は上がんない。働くことが大切だね。第一に漁業の復興。あとはいいんです。
大谷では、天然のワカメを砂の上に置いて干して、ワカメに砂をつけたまますぐ、出荷するんです。業者さんが買っていって、1年間寝かしてどっかに売りに行くんですね。
ワカメは出荷したては固いんだけど、砂つけたまま1年置くと柔らかくなるんで、1年後に食べるんです。乾いたら砂が乾いて、サラッと軽くなるから、ぽろって落ちます。砂をつけておくと(ワカメの質が)変わんないんだね。
母の弟が船乗りでした。この辺は開口の規制が厳しいから、海に素潜りして採る人はあんまりいませんでしたね。船を持ってない人は陸(おか)から行って泳いで採ったり。
ちょうど大谷海岸のところは、今は泳ぐ(陸前階上駅すぐの御伊勢浜は有名な海水浴場)けど、もとはみんな、全部、天然ワカメの干し場だったんです。私が小学生ぐらいのときは、どこでもそうだった、大谷海岸は。私は大谷の母親の実家で育てられたから、それをずっと見てたんだね。
戦争当時はまだ良くて、精米でも食べていけたんだけど、だんだんほら、(業績が)落ちて。私が小学校に入る頃から、だんだんダメになって、精米の仕事がなくなってきました。
それでも、海が近いから、精米やりながら、昆布は採ってたの。昆布でけっこう、稼いでいました。気仙沼の天然昆布って有名ですよ。天然だから、夏になって、流れてきたのを仲間と拾って、あと干して、丸めて、お盆に売るんです。くるくるっと丸めて、このぐらいの丸さにして、それをお盆のお供えに飾ります。それは気仙沼では有名なんです。その後は漁協に出して売る。昆布は乾燥させて、後で食べる。そのうち精米やめて、父親が海仕事に切り替えたんだね。
昆布の時期は、昔は、だいたい6月末頃から、8月のお盆までに採って、その後は、10キロだの10何キロだのと、くるくる丸めて、丸く大きくしていくんですが、実際は、9月頃まで拾ってたんだよ。うちの収入はほとんどそれでした。気仙沼で海苔や牡蠣をやってる人は、それでの収入もありました。海苔と牡蠣の養殖が有名なんですよ。
私が中学校終わってすぐくらいに、昆布から切り替えて、ワカメの養殖になりました。家で養殖ワカメを干していたのは、じっちゃん(育子さんの父)が病気で倒れるまでだから、6~7年になるかな。年寄り2人でしてました。
弟たちは、都会で仕事持ったから出ていって、家に残ったのはじっちゃんとばっちゃん(育子さんの母)と、あと面倒はじいちゃん(育子さんの夫)つまりうちのだんなが見ててくれてました。それでも、2人とも丈夫だったから、あまり手かけなくても、何とか元気で養殖してたんです。ワカメの「挟み方」(ワカメの種を切って、ロープに挟み込んでいく作業)の時なんかは行って手伝うけど、収穫は2人してしてました。ある年、この辺で最初にワカメを刈りに行ったんですよ。そうしたら気仙沼で初ものだって、テレビに映りました(笑)。
だからうちの父親は昆布とワカメで生涯終ったの。それで亡くなってしまったの。どんな父親? んー、子どもには厳しいかな。子供たちはみんな怒られるんです。女の子に甘いとか無かったね。
家を建ててからは、順調に忙しい生活が始まりました。本当に苦しくても、旦那は朝早く起きて海へ行ってワカメを拾って、ワカメを拾ってくると、3万、5万、7万円って日銭になったの。この人は川も好きだから、夜、川に網を張って川魚も獲りました。ウグイとかいろいろ。そういうのを売ったり、売らなくても床屋さんのお客さんにあげると喜ばれて、そのお客さんが次に来る時にいろいろな物を持ってきてくれたりしました。
そうやって一生懸命頑張って、その家を建てて何年目だろう? 手狭になったので、廊下を足して広間を建て増ししました。下を物置にして、上に部屋をとって子どもたちの部屋にしました。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
30歳位から、方向転換して、ワカメの養殖を始めました。私は中学の時に母親を亡くしているので、家には女手がなくて、おじいさんは2人いたんだけど、おばあさんがいないから、籠に子どもを入れて子守をしながら家内は仕事をしていました。
船は一段落していたんで、「人生を方向転換する! 次は、ワカメをやる!」となったら、今度は冷蔵庫が必要になりました。というのは、いくら大量に採れても漁協には売れない。だから、1回茹でて、塩蔵ワカメにして、冷蔵庫に入れて、1年間かけて売っていく。そのためには、大きい冷蔵庫が必要っていうわけなんです。
ワカメが2000箱入る冷蔵庫を2つ作りました。昔だから、大きくて、部屋2つ分くらいありました。それから、ワカメを茹でるための釜。大きなボイル釜も用意しました。ワカメの採れる時期には、自分で採ったり、買い付けたりして、人を頼んで、大きい釜で茹でて塩をまぶして箱詰めして冷蔵庫に保管して、それを1年かけて栃木県とか業者さんに直接売るようにしました。
ちょうどその頃、ワカメの養殖の権利についても制度が変わる時で、今までは勝手に漁場を使って良かったのが、その時点で既にやってる人じゃないと、養殖の資格が得られないということに制度が変わったんです。昭和55(1980)年頃ですね。県条例だから、宮城県の制度だと思います。歌津地区は、漁業権っていうのは漁協から権利を借りてるっていう感じなので、その情報は、例の参事さんが事務をやっていて、彼が教えてくれたんです。
ワカメを、少し前から始めていて、後2・3年すると漁業権の新規参入がなくなって漁場が変わらなくなるからって聞いて、私が一番後に来て、船が大きいから、遠くの、一番遠くの沖のところをずっともらったんです。船のない人が湾の中の方をもらうんです。実は、ワカメは遠い方が良いワカメが採れるんです。だから、何十箱もワカメが採れたんですよ。それを見て、大きな船を造って真似をした人もいましたよ。それに、ワカメは、うまくやると1年に2回採れるんです。12月に1回採って、4月にもう1回。これなら、50tが100tになる。同じ面積で、2倍です。
平成11(1999)年には、イタリアのベザーノ(Besano)という町と友好町になりました。この町はスイスの国境付近にある町で、歌津と同じ魚竜化石の町。歌津では2億4千200万年前の魚竜化石が出土しているんです。ベザーノの化石は、歌津とは違って海が隆起した山から見つかったそうです。ベザーノのほかに、魚竜化石が出土した町としてはドイツのホルツマーデンがあります。
じつは、最初に友好町の話を持ちかけたのは、このホルツマーデンでした。しかし、ドイツという国はお金持ちの子どもしかホームステイができないというんです。ホルツマーデンの隣のキルヒハイムという音楽家の多い町にも話をしましたが交渉は難航しました。そこで、候補国をイタリアに切り替えたんです。イタリア人は陽気で面白く、話を持ちかけると「OK! OK!」と、二つ返事で応えてくれました。ベザーノのコロンボ町長も面白い人で、歌津で開催した「国際魚竜化石サミット」で締結を結んだ際には、わざわざ歌津まで28人の親子を連れて来てくれて、お互いにホームステイをして交流も行いました。
町には国際交流協会も作り、町の予算で子どもたちを国内外に送り出しました。小学生は国内の、海のある町と山のある町に行きます。山の町は山形の立川町(今の庄内町)。ここは風力発電を進めている風車のある風の町です。研修に行った先の町の子どもたちは歌津へ招待し、10月にワカメの種はさみ、2月はワカメ刈りの体験をしてもらいました。これは、立川が合併して庄内町になっても続いています。中学生以上は海外へ研修に行かせました。そして、大人たちもグランドゴルフで交流を行いました。
歌津では半農半漁の家が多く、商店は少ないですね。とくに最近は、郊外に大型スーパーなどができたため商店街は苦労したことと思います。この先も、伊里前に新しい商店街ができることはないと思います。漁師よりは農家の方が多く、だいたい6、7割は農家だと思います。お互い、もめ事もなく仲良く付き合っていますよ。
ちなみに、昭和30(1955)年以降は、国が予算を出して全国的に麦作りを推奨しました。このあたりの畑は、みんなハマの方、海岸寄りにあります。山の方は“タカ”、海の方は“ハマ”って言うんです。畑を区画整理して、トラクターの購入にも補助金が出ました。当時は、漁業が上手くいっていなかったので、みんな政府の補助金事業に乗って、畑を大きくし、機械を買って麦を作ったんです。しかしその後、麦の値段が安くなって、畑では食べられなくなりました。そこで、再び海に戻りましょうと、ワカメの養殖やホタテ漁をやるようになったんです。漁業で、収入が得られるようになると、畑はどんどん荒れてしまいました。
船酔いしないというのには、生まれつきの体質はありません。気合いだな。船酔いしていた奴が、家に帰ってくると治るんです。不思議とね。船酔いするのは、開口で海に行く時も、「さあ行くぞ」っていうと、もうその時点で船酔いしてる。それが、雨で「明日は開口は中止」となると、夜にサイレンが鳴るんだけれども、それを聞くと、スッと治ってしまうんです。中止のサイレンが一番直る(笑)。朝方、開口中止のサイレンが鳴ったら、もう爆睡です。安心してね(笑)。
開口は、4時から6時まで。波の状態を見て、明日は波がないとなったら、ゴーサイン。朝から、風が吹いたりすると危険だから中止。で、サイレン。
開口日は、行事っていうより、生活がかかってるからね。それがもう、その家の収入の半分以上を占めてるから、一大事なわけです。今は養殖やなんかで、他にも稼げるけれど、当時は開口日にワカメとウニとアワビを獲って、1年の半分生活してるようなものです。後は、米は買わなくていいように無理して田んぼで米を作って、半農半漁。歌津の山は、こっちの半分は浜の人たちの物です。うちの山もあります。昔は油やなんかがあんまりなかったから、木を切って焚き物にしたのよ。木を切って、そこの魚竜館の前で船に積んで、泊浜まで持って行きました。だから山も、田んぼや畑も必要だったわけです。
開口には家族全員で行きます。なんでかっていうと、船で狭い所、岩場の狭い所、あんまり船が寄らない所にアワビでもウニでもたくさんいるから、わざわざそういう所に船を進めるためには、船の先っちょに乗って竹竿で岩にぶつからないようにする人が1人。同じく後ろにも1人。つまり前と後ろに岩にぶつからないようにお母さんとお嫁さんが竹竿持って乗って、男の人たちが獲り方。だから全員で行かなきゃならないんです。
タコはだいたい、アワビの開口終わった頃に網や籠で獲るんです。アワビは11月からです。だいたい年に5回か6回ぐらい開口するんです。それも天候見ながらですから、天候が悪ければその年は4回のこともあるんです。逆に天候が良ければ6回までは行けるね。この開口の時もみんなで漁に行くんです。
アワビを獲るときは、潜り漁は禁止なんですよ。網も禁止。獲りすぎるから。終戦後なんか網ですくって獲るもんだから、アワビの数がいっぱいだったんですよ。獲るのはいいけど、全部身を剥くから、獲るより人手がかかったんですよ。そんなふうに、みんなが乱獲をするってわけで、それ以降はみな、カギで一個ずつ獲るようにしたんですね(図1)。こういうカギでね。深いところで5メーター6メーター、浅いところで2メーターあるね。
ウニの季節は6月から7月です。私が若い時、ある年はひとりで、ウニを60キロくらい獲った事もありました。そのときは、朝6時からだいたい10時までずっと漁をしてましたね。
アワビは今でもやります。去年はひとりだけど採りましたよ。最近はなかなか数量が少なくなってねぇ。その年の開口を通して、10キロくらいでないかな。去年の相場はキロ7500~7600円でしたね。
農業より、やっぱり海の方、アワビやウニ、ワカメのほうが収入になったんですね。しかも、アワビだってワカメだって家族の多いところは、よその家より余計に獲るわけですよ。5人も6人も行って採ることもあるから、その分、収入がちがうわけです。
だから、開口には、健康な人はみんな行きますね、母さんだって婆さんだって、その家にいて、健康な人はみな一緒に行くんですよ。船に乗る人数は、家によりますが、何人乗りだろうがかまわないんです。ひとりで行く人もいれば、3人乗って行く人もいましたしね。
ワカメの開口はだいたい年7回くらいですね。今日やって、明日もというわけにはいかない。天気がよければ2日続けてということもありましたけれど、だいたいは間をおいて、天候と潮の加減をみてから、次の開口日を決めます。ワカメを刈るには、潮が引いてる時の方がいいですね。
朝、満潮で行っても、そのうちに潮が下がるから、そこで採るんです。ワカメ刈りにかかる時間は、だいたい2~3時間くらいですが、船がワカメで満船になれば、陸(おか)に帰って行くんです。船にいっぱいに積んで帰って、あとはそれを干す時間が2日ぐらいかかるんですね。生のワカメだから、今度は刈ってきてそのままだと表面が乾燥するから、家へ帰って来たらすぐ、海岸の砂を取ってきて、砂でワカメをくるんでいくんですよ。表面が乾燥するのが早いですからね。そして1本ずつ(余分な水分を取るために)干すんですよ。
干す場所は、海岸の空いてる所がほとんどワカメを干す場所になるんです。海沿いの道路の何百メートルがワカメ干し場になるんです。場所は特に決まってない。空いてるところはどこでもいいんですよ。喧嘩にならないですよ、町内ならば、どこでもかまわないんです。夕方干したのを集めて、次の日また持って行って干して、2日くらい掛かる。クキなんか、なかなか乾燥しないですからね。
干したものを、砂で揉んでおきます。そうすると、漁業組合から「何月何日に集荷します」って連絡があるんですよ。そして漁協に納めるんです。
ウチは両親が結婚する時に船を持って組合員になって、漁業権も持っていたので、夏はウニ獲り、11月はアワビ獲り。畑もあったので、大根とか白菜とか、そういう物を食べて、おかずって特別に考えたことはないですね。
私が小さい頃、昆布の開口と言うのもあって、その日は赤崎海岸に親が船で昆布を持ってくると、それを私と妹で伸ばして干して、夕方になったら全部まとめて家に持ってきて、そのままだと乾いてガリガリになっているから、少ししとらせて(湿らせて)長さを揃えて切り分けて、業者に買ってもらいました。
芝から出てきてからは自力で生活していくしかなかったから、ワカメでも昆布でも、現金になるものは私たち子どもも手伝ってやりました。
若いときは、今のように炬燵もないし、ストーブもないんだ、どこのうちにも。お天道様が当たらなくても着るものいっぱい重ねて着て冬は過ごしたし、あとは暖かくなれば働きに出たわけね。ずいぶん働きましたね。
魚の加工場は働く場所同じだったけど、季節で魚が変わっていくから、先輩について教わってね。働いたわけね。夏はカツオ。秋はサンマね。あとはその間にはいろいろあったのね。ワカメとかね。あとは海岸伝いにずうっとアサリが獲れたし、カキや、どっか海苔を採ってきて食べたり。
車のある人たちはみんな舞根の方までカキを獲りに行ったんだが、私はこの辺でアサリを獲ったんです。塩水までペットボトルさ入れて、この塩水で一晩砂ふかせて食べるんだぞ、なんて言って、アサリと一緒に塩水まで持たせたりしたもんだ。その塩水で、アサリが見事につの出すの。
真冬はね、縫い物とかね。お正月の準備はそれぞれその家その家によって家風があるからね。教わって男の人はおかずにするとか、女の人はおせちね。いまだら何万出せば高価なのを買えますよね。それをなに、ここはアワビもあれば、ね、タコもあればね、なんでも魚はあるし。そして食べたもんです。