そんな風に、面白いこともあったけど、戦争が始まったので、一方では怖くもあった。 大東亜戦争の始まる前は、「教育勅語」を聞いてから仕事が始まったんだけど、戦争が始まると、「教育勅語」はやめになりました。その代わりに、偉い人 […]
酒の肴は、毎日のことだから、それこそ刺身を作ったり、父親はイワシの頭を取って酢に漬けたりして、「うまい」と言って食べてた。それからドンコを生で叩いて、ワタを入れて、タマネギを入れて味噌であえるのが本当に美味しいの。 ドン […]
2番目の姉が、はじめは静岡県富士郡吉原町にあった「東京人絹(じんけん)株式会社」というところに勤めてて、その後、横須賀の海軍で働きました。 姉が行ってから、募集があって、うちの父が世話をしてくれて、私を含めて志津川から6 […]
父親はワカメのほうでも腕が良くて、6〜7人の人を頼んで、浜いっぱいに採ったワカメを干したもんだったよ。その頃は塩蔵ワカメなんてないから、全部干すの。次にそれを、長屋に重ねて置くんだけど、ワカメの出荷は、今のようにナイロン […]
家に帰って来たところで、戦時中だったから、男の人は戦争や工場に取られていなくて、家に残された女性は一生懸命戦争に協力しなければ、って言ってたよ。女の人は山に行って、松の根っこを掘って、そこから飛行機の部品に使う油を採るっ […]
昔は、海苔のことを「ウンクサ」って言ったの。「運の草」であると。「バンジョ」っていう市場にあるようなカゴでいっぱい海苔を採ってね。入れても入れても、いっぱい溜まるんだな。それでうちの父さんが身上を上げたのさ。 だからね、 […]
結婚式の日は、祖父が商人をしていて、石越に宿をとったところが、たまたま髪結いをしてくれる家の人だったから、そのご縁で髪を結ってもらいました。その宿は、昔は子どもを教育する学校だったそうから、教養のある良家だったと思う。髪 […]
また、父親が、ものすごい量の海苔を収穫して来てね。今は全部津波で流されたけれども、松島あたりの島で採って来たの。 うちの妹も「働き者(はだらぎもの)」でね。その妹と2人で、朝3時に起きて、大きなカゴに水を入れて、海苔を入 […]
戦争は日本が負けて終わったでしょ。「これは大変なことになってしまった」と思ったっけ。 みんなで泣いたりもしてたけど、それでも戦争が終わってみんなが故郷に帰って来ることが幸せだったねぇ。そして、歌津の方でも志津川の方でも演 […]
昭和8(1933)年と、昭和35(1960)年のチリ津波と、今度の津波は3回目。昭和8年の津波でも、私は家も小屋もみんな流されたんだ。やっぱり今度のように雪が降ってね。 津波の前には志津川(南三陸町)に住んでいました。今 […]
その後、6月15日はうちの父親の命日だから、14日にここの仮設住宅(平成の森仮設住宅)に入ったの。そしたら何も知らないでいたんだけど、いつまでもここに入居しないでいるとカギを取り替えられて入れなくなってしまうんだって。何 […]
11月から2月の頃、夜になると大人たちが拍子木もって『火の用心』やるんです。そうやって火まわりしだんだね。そこに行って遊ぶんです。一緒に回ったり。焚き火を一番する頃だしね。その時代は火をおこしていたのは薪しかないからね。 […]