東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

3.11被災

津波のときは、伊里前から隣町の志津川に買い物にいくつもりで、歌津駅の待合室におりました。志津川は電車賃で200円の区間です。家内が3年間くらい寝たり起きたりしていた頃に、僕が炊事をしましたから、自分で調理ができるんです。 […]

満洲の温泉

小学校8年(国民学校初等科6年、高等科2年)を終えた僕は、家が貧しいもんですから、満州の南満州鉄道に行きまして、会社の養成施設の「大連鉄道学院」に2年間学びました。そこで1年目は有線電信を学び、2年目は運輸関係、列車に乗 […]

大謀網漁

結婚して2~3年後に、2番目の弟が出稼ぎに行って、大謀網(だいぼうあみ)漁(沖に仕掛け、魚を囲い込んで出られなくする漁法)で成功して、当時のお金で1500円も稼いできたんです。安いお家が一軒建つほどの金額でした。当時弟は […]

歌津・志津川合併

3期目で、市町村合併の話が出て、合併協議会の委員に就任しました。 当初は合併するにあたって、気仙沼含めてもっと広域でするのがいいなと考えていたんですが、最終的には、志津川と合併することになりました。 農共済で経験しました […]

戦後の食糧難

小学校1年生の頃は、太平洋戦争が始まった昭和16(1941)年、そのころは鮮明に覚えてますよ。家の隣が小学校だから、ほんと、一歩出れば学校の脇だから遅刻しないし、弁当なんて持っていかないのよ、家に帰って食べてたんだよね。 […]

2つの瓦工場

歌津の吉野沢に当時、楠原・三浦という2つの瓦工場(こうば)があったんですね。そこに1日百円で働き始めました。12月に佐沼から帰ってきてすぐでした。 その当時日給百円は、まあ、普通だったんじゃないですかね。弁当持ってね。働 […]

護岸より高台移転

この地域の護岸については、水門、防波堤と、税金を投じて、水門なんかも相当高いのを作ったんですよ。岩手県の田老町で、明治の津波で壊滅的な被害をうけてね、作れば津波は入ってこないよ、という11mのすごく高い堤防を作ったんです […]

志津川の大火

昭和12(1937)年、この年は、志津川でね、大火があったんですよ。志津川に五日町ってあるでしょ、あの一帯。店も焼けて、そして一家は歌津に来たんですよ。私が5つか6つの頃だね。そんな小さなころだから、志津川のときの記憶も […]

3.11被災

3月11日当日は、お昼食べて、家内と2人でいたんですよ。3月の中旬ですから、寒かったですね。揺れもでかかったし、長かったですが、家のなかは何も倒れなかったですね。玄関に出ると、孫が大事に飼ってた金魚鉢が倒れそうになってま […]

農業共済組合

農業共済組合に入った頃は、「農共済ってなんだ?」って状態で、ぜんぜんもうね、メリットが理解されない時代でした。「共済ってそんなの入らねえし、貰わねえす」というのを納得させんのに、まあ相当の年月食ったよね。 農業共済っての […]

三嶋神社の裏参道

思えば、私は志津川で大火にあって、移り住んだ歌津では戦争で何もなくなって、そしてようやく「いいな」と思ったときに津波でこんなに辛くなって、ずいぶん良くない巡り合わせの生涯だなあって気がしています。 まあ、そのうちに、伊里 […]

津波被害

津波のあと、3日も息子に会えなくて、私は死んだと思ってたよ。息子は志津川湾に船を見に行っていたときに津波が来たの。うちの船は3艘あったんだけど、ひとりで全部を見るわけにも行かないから、2艘はすっかり流されました。志津川湾 […]

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