制服は、俺たちはどっちかっていうとホントの学生服でなくって、なんていうかな、近所の人のお下がり、着たったと思うよ。 俺たち「うるし柿道路」って言ってたんだけど、その道路が米川に通じてんのさ。片道12キロあった、その道を通 […]
華足寺では33年に一回御開帳ってあるんだって。それがいつかは私も定かではありませんけども。で、これは言い伝えなんだけどもね。親父から聞いた話では、坂上田村麻呂将軍のしゃれこうべがあるってことなんですよね。ご開帳の時には、 […]
総代の仕事っていうのは、華足寺には秋、春のお祭りがあるんだけど、どんな風にしたらいいか、経理や、ポスターを何枚作る、新聞広告に出す、あるいは文書で直接個人に配る、とか、それから今回みたいに震災で文化的なものが壊れた時に、 […]
馬の手入れはね、蹄(ひづめ)を守るのに、蹄鉄(ていてつ)ってやつ掛けんのさ。蹄鉄やってる「金靴(かなぐつ)屋」は米川(よねかわ)か津谷(つや:気仙沼市)にあんのさ。こいつだけは自分たちではできないから、米川の「三浦」って […]
華足寺のお供えは伊勢の神宮の流れを汲んでお膳を捧げるんだねえ。献膳係の中に「献膳係」っていうのがいてね。お祭の形式的なことを守り伝えている人がいるんだね。 オイカワエイシさんって今度総代になって貰ったんだけどね、献膳長で […]
俺のあだ名は「尚(なお)ちゃん」っていって、世間がちゃんをつけて呼ぶんだね。やっぱり総理大臣とか何とかさ、うんと目上の人には普通「ちゃん」ってつけねえから、「ちゃん」をつけるっつうことは、子どもの頃、近所で名前を呼ばれて […]
日本鋼管から鱒淵に戻ってからは、林業には戻らず、畜産農家に変身したんだね。今度は乳牛なんだね。昭和41(1966)年あたりは乳牛プラス家畜商の免許を取ったね。 家畜商っていうのは、3日ぐらい講習受けて、供託金2万だか3万 […]
戻って来てからは、いろんな人と遊んだけど、野球でひとつのまとまりがあったね。鱒渕野球クラブを作って。登米市では他に、仙北鉄道とか4チームしかなかったのさ。その4つで軟式野球の登米郡の予選なんかやってね。 地元にある建設会 […]
道路に面したところに店先があって、そこの窓から、祖母が雁月(がんづき)という練り菓子、ういろうより少し固いような菓子を作って、売っていましたね。泊浜とかそのほか浜の方の人たちが、山の方に田畑を持っているので、そこに行く途 […]
遊びでよくやったのは、「メンコ打ち」、僕らの言葉で、「バッタ打ち」でしたね。私はあんまり得意じゃなかったんですが。 小さいバッタが大きいバッタをひっくり返すんだから、どういう物理的現象で風がいくかわかんないけど、何人か、 […]
父の実家は半農半漁でした。この辺はたいてい半農半漁でしたね。農業はお米ですね。漁は今のような漁師ではなく、磯漁です。天然もののアワビ、ウニ、あるいは海藻をとって、生計の足しにしていました。今よりも若干値段は安かったかもし […]
昭和17(1942)年ごろ東京を引き払い、こちらに戻ってきました。 1年間漁業協同組合に行って、そして小学校国民学校の今でいえば、代用教員の「助教(じょきょう)」に任命されて、月俸28円を頂くことになりました。 教員生活 […]