うちは親父の代から半農半漁でした。親父は私が15歳のとき、44歳で亡くなったんです。母は今80歳。元気に農業やってますよ。ホウレンソウを蒔いていて、今日も畑に出掛けていきました。もうね、動いてなきゃだめなんですね。週に1 […]
今後の課題は「集団高台移転」ですね。 誰しも今まで自分が住んでたところに戻りたいと思うもので、津波の危険があってやむを得ず移転しなければならないのであれば、できるだけ自分が住んでた場所に近い高台を望むわけです。名足地区は […]
戦争が始まったのは、私が19歳の頃です。その時はみんな挺身隊っていうのに行ったんです。私たち女性も兵隊みたいに引っ張られて、女学校もです。 私は、引っ張られずに家にいて、防空壕を掘って穴さ隠れたり、山さ隠れたりしました。 […]
子どもの頃の遊びはテレビなんかなかったからね、海山で遊びました。そこらじゅう、走って駆けってまわってね。 夏は海に行っては、アワビ獲ったり食べたり、海で育ったせいもあって、海が好きなんですよ。魚釣り、漁が好きなんです。山 […]
昔は、小学校を6年卒業すると、尋常高等1年、2年とあって、それから女学校です。今の高校です。部落から、同じ学年に約20人にいて6人かな? 進学しました。学校までは、歩いていきます。片道2時間、往復4時間です。今の志津川小 […]
小学校は伊里前小学校です。私が小学校1年生の時が終戦です。だから、ノートって無かったんですよ。朝の連続テレビ小説「おひさま」、やっていますね? あれと同じ時代です。物が無い時代です。 ノートがないから、石板に蝋石(ろうせ […]
私たちは、蕎麦だって、とうもろこしだって、みんな作ったんだから。粟もヒエも。で、戦争中は「かてご飯」って、豆を入れたり、大根の葉っぱを干して刻んで、炊きこみにしてね。大根の茎からね、栄養にもなるし。今だって食べるには食べ […]
そういう父も敗戦後は少し変わったかもしれません。とにかく食べて行かなければならないですからね。橋の欄干に通していた鉄パイプも供出してしまって無いような時代で、とにかく物が無い。食べ物も無い。「松根(しょうこん)」と言って […]
食事も、米がないから、「つぶし麦」って言って、麦を竹の竿と木をつないだもので打(ぶ)って、ふるって、お母さんたちがついて、食べられるようにしたんです。 米だって、脱穀する機械がないから、昔は、千歯こきって言って、稲を束ね […]
生まれは昭和13(1938)年8月31日です。ちょうど73歳です。宮城県本吉郡歌津字伊里前です。ずっと地元で生活してきました。 兄弟は、弟と2人です。兄がいたんですが、5歳で亡くなっていますから、両親と弟と4人家族です。 […]
今の子たちは、遊び場もいっぱい増えて、わけわかんないくらいオモチャもあるけど、昔はそういうものがなにも無いんだものね。 遊ぶものなんてないから、海へ行くと干潮で波が引けるでしょ? そうすると、長い棒を使って貝を獲ったり、 […]
津波は、今度で4回目です。明治29(1896)年と昭和8(1933)年にも津波があったんです。それから、チリ(地震)津波、昭和35(1960)年です。 昭和8(1933)年の津波の時は、私は8歳になったところでした。昭和 […]