9月になると、夜が明けるの待ってキノコ採りに行くんですよ。いろんなキノコ採って、うちに帰って風呂に入ってご飯食ってから出勤だから!(笑) キノコはね、私は先生ですよ。大体分かるんです。その代わり、本は随分買って勉強しまし […]
こうして仮設に入って、家の中でゴロゴロしていてもしょうがないんだからと、みんなを誘ってグランドゴルフをやっています。実は、宮城県のグラウンドゴルフは歌津が発祥の地なんです。気仙沼市と唐桑と角田市に働きかけて、歌津を合わせ […]
避難したのは、歌津中学校の体育館です。あの晩はかなり雪が降ったんですよ。 まずは下の小学校に駆け登って、たどり着いて、少し疲れて休んだんです。伊里前小学校のプールの近くです。 そうしたら、同級生がそこで亡くなったと後で聞 […]
地震の揺れの後、「津波来るかな?」って海を見に行ったんです。そうしたら、かなり水の引きが速いものだから、「こりゃあ、いかん」と。上の娘のところに女の子の孫が2人いて、1人が気仙沼の高等学校へ通っているので、その孫が心配で […]
この地区は、当時は半農半漁です。うちも田んぼも畑もやって、海では天然のウニやアワビやワカメを獲って暮らしていました。当時はまだ養殖はない時代です。 「かっこ船」っていう木を合わせた船に乗って、箱メガネで水中を覗いて竹竿( […]
息子さんのお話 私は津波の時は、隣のおばあちゃんを引っ張って逃げました。私の部落は孤立状態になってしまったんです。下の方は全滅です。自分の土地への建設は不可能だと言われています。具体的な話が、行政側がはっきりしていないか […]
私は、避難所には入らなかったんです。親類の家に1カ月近く。爺ちゃんの弟が歌津の名足浜にいるから、そこにお世話になりました。 それから、気仙沼の兄弟の家に半月位。その後ここの仮設住宅が当たったんです。息子夫婦は、細浦の親戚 […]
昭和33年に高等学校を卒業して、仙台の大学病院へ臨床検査の勉強へ行きました。その頃はまだ専門学校とかではなくて、大学の研究室で、助手のようにして勉強しました。2年間です。18歳から20歳まで研修して、昭和35年志津川病院 […]
私たち、地震のあった時はね、爺ちゃんがテレビを観て、「こんだ(今度は)、大変だー!!」「地震だから、婆ちゃん、出払え〜!!」って叫んでね。 外へ逃げたから、爺ちゃんは1人、私とお母さん(お嫁さん)は一緒、お父さん(息子さ […]
高等学校は宮城県立志津川高等学校です。前身は、志津川実科女子高等学校ですけれど、私の頃は共学でした。歌津という地区から高等学校へ進学するというのは少なかった時代です。中学を卒業すると漁師になるというのが一番。とりあえずお […]
チャグチャグ馬コ 同じ家で育ったから、喧嘩しながら一緒になったのよ。その当時は、船さ、ちょっとぐらい乗ったかなぁ。私と一緒になってからは、家の仕事をやりましたから、こうして今でも一緒だからね。機械が無かったから、馬っこね […]
結婚式の時は、かつらではなくて、自分の髪で高島田を結いました。今は年をとって髪が薄くなったけれど、元は髪もあったから、髪結いさんに来てもらって、自分の髪で結って振袖を着ました。旦那さんは羽織袴です。ご親戚だとか兄弟だとか […]