東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

米俵

戦後、一番上の兄貴が中国で捕虜になり、抑留されてソ連にいました。それで日本に帰って来なくて、すぐ上の兄と私と2人で実家の農家を守ったわけです。今みたいに機械でなく、昔の農家の仕事っていうのは全部、手足を使ってやるわけだか […]

大地主の農家に生誕

私が生まれたのは昭和7(1932)年3月16日。もう80歳です。私は、銀行に一番長く勤めていたのだけどもね、百姓から、酒屋から、商売から、いろいろやったんです。何でもやってきたから。何でも聞いてください(笑)。 生まれた […]

戦争~終戦後

終戦の日を迎えたのは、は中学2年の時、私は15歳でした。 当時の中学校は入るのは大変だったんですよ。競争率が4.6倍でしたからね。今なんて1倍あるかないかの競争率で騒いでいますけど、昔は4~5倍ぐらいが普通だったんです。 […]

登米の郷土色豊かなお正月

私たち農家のお正月といえば、昔は旧正月に祝ったものです。 お正月の準備は小寒、1月の半ばあたりに、まず凍(し)み豆腐を作ることから始まります。自分たちで育てた豆から、自分の家で作るんです。農家はみな、そうやったんですね、 […]

農地解放を経験

そして、戦後は、ああ、ずいぶん変わりましたよ。農地解放(GHQの指揮で、地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された)で地主が土地を失くし、幣価切り下げもありました。つまり、 […]

地方銀行の黎明期に入行

銀行に勤めたのは、末っ子ということもあります。いくら実家を手伝ったところで、腰ばかり痛くて、家督でなければ1銭にもならないから。朝からネクタイ締めて出掛ける、そちらの方がいいなって(笑)。 私が入った銀行は、入行した頃は […]

子どものころの遊び

私が子どもの頃は、今より雪が多かったので、ちょっとした坂なんかは、ソリを使って滑っていましたね。それから、もっと面白い遊びはこうです。田んぼに水が張っていると、寒さも厳しかったから、氷が張るわけです。そこをスケートするん […]

青色申告会

私は、青色申告会の会長をしてるんですよ。一時は、県の理事もやっていました。もう20年ぐらいになりますか、退職して2、3年経ってから就任しました。それと同時に商工会の監査役もやったりしました。 だいたい75過ぎてまで、青色 […]

地方銀行の仕事

私の最初の仕事は、お客さんの所を回って「日掛け金」を回収することでした。お客さんを覚えるのに150軒くらいの担当を持たされて回らされるんです。入社して2年くらいやりました。最初は佐沼地区で、1年回ると、また別の地域を担当 […]

志津川の家・酒屋の歴史

志津川の養父母の酒屋は、志津川で製糸工場が倒産して、その経営者の家屋敷を買い取ったのが始まりなんです。90年くらい前の話ですが、1000坪ぐらいあろうかという相当なに大きな屋敷だったんです。当時うちの養父(おやじ)がね、 […]

3.11被災

3月11日は、税金申告が終わって、片付けをして、我々夫婦と息子と3人で家にいました。地震が来たとき、廊下の壁と壁の間に腕を広げてつかまりました。古い家だから潰れるんじゃないかと思いましたが、補強したから地震では大丈夫でし […]

チリ地震津波

結婚して志津川に行ったのは、私が27歳、これ(恵子さん)が23歳のときだったと思います。銀行に入ってから結婚しました。ちょうど伯母の家に子どもがなかったから、これが先に養女に入っていて、私が養子に入ったんです。 翌昭和3 […]

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