小学校は8年通いました。昭和8(1933)年、津波の年に小学校に入ったの。子どもの頃は、いつでも「陣取り」したの。 「陣取り」ってわかる? 隣の家と隣の家で、じゃんけんして、隣の家さ、相手よりも早く「陣取って」攻めていく […]
実家は百姓でした。それから、海仕事もしていました。アワビを獲ったり、ウニを獲ったり、あとは、歌津の海藻を一生懸命採ったんだっけねぇ。おらいの(うちの)お袋は、歌津の中でも海藻をたくさん、採ったほうだ。みんながカゴ1つぐれ […]
小鯖に40年も50年も住んでて思うのは、私たちも家を流されたったら、やっぱり、ここには住みたくないですよね。最低でも気仙沼。病院のそば。そういうところを選びますよ。いくら子どもが仙台にいるたって、仙台まではとても・・。私 […]
若いときは、今のように炬燵もないし、ストーブもないんだ、どこのうちにも。お天道様が当たらなくても着るものいっぱい重ねて着て冬は過ごしたし、あとは暖かくなれば働きに出たわけね。ずいぶん働きましたね。 魚の加工場は働く場所同 […]
唐桑尋常小学校では、1クラス40人くらいいましたね。3年生までは男女一緒で、4年生からは裁縫が出たわけ。そのために男女に分かれて授業を受けました。男は裁縫の時間は勉強です。 お裁縫はそのころから好きでした。でも、みなさん […]
父はいわゆる半農半漁で、小漁(こりょう)でした。だいたい私の生まれた所はね、小漁が専門でね。私たちの孫の代くらいからかな、おっきな船にのったのは。そのころは船も機械ではなかったから、ちっちゃい手漕ぎ船で漁に出ていました。 […]
お風呂はどこの家にもありましたね。 まあるいドラム缶のような大きいの、1個半くらいの長さにしてね、丸い筒があって、そこで木なんか焚いてそして沸かしたの。あとは松から下りる松笠(まつぼっくり)ありますよね。あれ拾ってきて。 […]
その後は、電気も無いわ、電話もないわ、水道も無いわ、ろうそく1本で何カ月暮らしたか。水は下の井戸から息子が両方提げて、運んでくれました。流された家の井戸なのね。つるべって言うか、綱つけて、そして汲んだの。何でも無いば不自 […]
子どもが小さい頃から、お漬物やおひたしもおやつに出してましたけど、この辺では「鍋焼き」っていうのを作ってました。やっぱりお姑さんに教わってね。小麦粉を水で練って、鍋で焼いたのね。味はお塩とお砂糖と。昔は弦(つる)のついた […]
小鯖の丘家は、明治と昭和と2回津波に流されたんだって。そのため、少し高いところに来たんだって。その家も古くなったから解体して建てましょうって、壊したわけだ。そして何日か経って、基礎工事始めたら、一晩のうちに工事してる所に […]
味噌は、小鯖に嫁に来た頃はずっと家で作ったの。豆を煮てね。親類でカツオ製造する家があって、カツオ煮る窯で豆を煮てもらって、そして手で回して潰して、塩入れて、麹は入れたったかなあ? そうして作ったんです。ここ結んで、藁でこ […]
嫁入りは、昔は仲人さんがついて、親が決めて、「こういう家が嫁に貰いにきた」ということで、「仕方ないな」と思って結婚しました。今なんて、こんなこと、考えられないよ。見たこともない人のところさ、お嫁に来たんだから。結納の品は […]