私は、昭和13(1938)年8月23日に、歌津で生まれました。親父は私が生まれてすぐ、19歳で出兵し、シベリアで抑留されました。ウラジオストックの近くの強制労働施設で働かされ、そこで病気になって、昭和22(1947)年に […]
私は昭和2(1927)年生まれで、大正15(1926)の人と学年は同じだ。その年に大正っていう年号が無くなったべっちゃ。そん時ね、昭和元年と2年と、1週間で年号が2年になったんだ(大正15(1926)年12月25日大正天 […]
この歌津にはね、天保年間(1830〜1843)の津波も来てたの。大きな津波だったから、私たちが住んでいた海岸には、その天保年間の津波の石碑があるの。田束山(たつがねさん)には「波かけ」という名前の場所があります。ここまで […]
この地域は大きく分けて、南部、中部、北部とあったんです。歌津、志津川、小泉が中部、大谷から気仙沼まで北部。地域には昔から決まった青年団があったから、クラブもあったけどもそっちには入らないで、青年団に入りました。歌津町青年 […]
歌津が村だった頃は、私(おらい)のおばあさん(お母様)は、寺子屋っていうところに通っていて、4年で終わり。学校に4年生までしか行かない時代です。ずっと前さ。私らの生まれる前のことです。明治生まれだものおばあさん、今生きて […]
私のお父さんは昭和5(1930)年に亡くなりました。私が5つの時です。今の子どもたちはテレビ見たりして良く知ってるから、人が亡くなるということがどういうことか、すぐわかる。私は本当の子どもだったんだね、わかんねぇんだね。 […]
3月11日の地震の日は、その前に3カ月ほど、血小板が足りなくて高熱がでたり震えがきたりする症状で、入院していました。その時から足が不自由になってしまったの。痛いから注射したりしてね。 地震が起きたのは退院してから1カ月も […]
戦争に負げたからね、暴力団なんかが、横暴(デタラメ)になってきたべっちゃ。ほんではワガンネ(いけない)ということで、私たちは、こういう時こそ神様への信仰でひとつになることが大事だと思って、私は先頭になって、南部神楽を始め […]
マツモは採って来ても、根っこを取らないとワガンネ(いけない)。根っこをとったのを干すのに、四角な「ます」(写真下)がある。そこに入れる。これを型で打(ぶ)つ、というんです。打(ぶ)つ夜には、一晩中、時間が4時間くらい、朝 […]
家は流されねえの。下まで波が来たけど、流れねえの。だけっど、お爺さんが海岸で店ッコやってたの。雑貨屋。津波の前の日には、新しい店ッコの「建前(タテメエ)(新築の際に行われる神道の祭祀、いわゆる「上棟式」のこと。詳しくは後 […]
昭和8(1933)年3月3日、地震の日はまだ寒くて、雪が降っていたの。津波の上がったところだけは黒くなって、上がんないところは白い雪が残ってね。 津波が来たときは、私はまだ小学校に上がる前で、夜、お爺さんと一緒に寝てたけ […]
戦争が終わってからは、家に帰って農業をしました。 周りはみんな農家で、いっぱい畑があって、人手がない。昼間も働いて、月夜の時は月の明かりで働いたんだ。月の明かりだけでやったの。私だけでなく、みんながそうでした。 それに、 […]