東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

危機一髪で助かった孫

一番大きい孫は、気仙沼の船のエンジンを直す会社で働いていました。気仙沼の鹿折(ししおり)という所です。津波が来て夜に火事になった所です。いや〜私、死んだと思ったんだー。だって、海と道路一本隔てただけの会社です。後は堤防が […]

青年学校

5年後にやっと奉公先から戻ってくると、裁縫の習い事をしました。戦時中のことで、ちょうどそのころ、学校の制度がうんと変わったんだよね。「国民学校」と言ってたのが、「青年学校」になったのかな?(職業に従事する、勤労青少年男女 […]

奉公

私は、学校は、尋常小学校にだけ行って、そのあと東京に奉公に出たの。だから難しい話も、書くこともわかんないの。その頃は小学校のあとに、高等1年と2年があったのね。入んない人も半分くらいあったでしょうね。 東京に出たのは小学 […]

3.11被災

津波に流された日は、ちょうどマツモの開口日だったの。午前中はマツモを採りに海へ行っていました。それと、銀行から100万円を下ろしてあって、孫の車の保険をかけようと思っていました。 海から帰って来て、寒い日だったから、コー […]

中瀬町

中瀬町の中心は志津川の駅のあたりなんです。中瀬、竹川原、廻館、塩入地番の4つで一つの中瀬町という行政区を作ってきました。住所と集落の名前は一致はしないんです。こういう例はこの辺りでも少ない。林、大久保、とか地番が部落の名 […]

タバサミ

実家は農業。ああ。おめぇたちに言ってもわかんねぇなあ。その頃は機械も何もないから、田を起こすのにも、荷物を積むのにも、馬を使ったのさぁ。農家はどこにも馬がいたの。お父さんは、その馬の、荷物を積む荷鞍の、その中に入れる「タ […]

ワカメ拾い

家を建ててからは、順調に忙しい生活が始まりました。本当に苦しくても、旦那は朝早く起きて海へ行ってワカメを拾って、ワカメを拾ってくると、3万、5万、7万円って日銭になったの。この人は川も好きだから、夜、川に網を張って川魚も […]

理容師法改正

ちょうど私が中学を卒業した年、昭和27(1952)年の6月に理容師法が改正になって、それまでは弟子を少しやって試験を受ければ良かったのが、学校を卒業しないと試験が受けられなくなって、私の年はどこの学校もいっぱいになってし […]

三陸鉄道の現場工事

中学を卒業して、春から秋までは家の百姓仕事を手伝ったり、鉄道の建設現場へ働きに行ったりしました。ちょうど麦を撒き終わった頃で、三陸鉄道の現場へ40日くらい通いました。鉄道の始まりの頃なので、トロッコに乗ったり、トロッコに […]

食べ物が無い時代

お米は食べられたと言っても、いろいろなものを混ぜて食べました。麦ばかりじゃなくて大根の葉の干したものや、ひじきご飯とか、サツマイモのご飯だとか、いろいろです(かて飯)。食べ物が本当に無い時代でしたから、学校のお弁当にはサ […]

国民学校

私たちは、入学の時は国民学校です。昭和20(1945)年、小学校2年生の時に終戦になりました。 終戦になる1カ月前かな? 大谷の海があって堤防がずっとあって、そこにパルプ船、山の木を伐ったのを積む大きな船があったんです。 […]

避難生活

私は平成の森の仮設が当たって、そこに入るまで、気仙沼の長男のところ避難してたんです。息子とお嫁さん、それと孫3人と暮らしていたんですが、6月1日にここに当選して、入ったわけです。だから体育館のような避難所暮らしはしてない […]

Navigation

Please use the navigation to move within this section.