東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

普段の食事

米は作って売るためのものでした。いいお米は売って、家では、普段はふるいにかけられた後の屑の米を食べるんです。10人家族で米の量も半端でないわけさ。お正月とか、祝い事のときだけはいい米を食べました。麦は、(売る為のもので) […]

戦争と結婚

結婚した人は漁師だね。支那事変(日中戦争の勃発)があって、昭和12(1937)年から戦争が始まったの。その頃は召集令状なんて、そんなに来なかったのね。昭和18~19(1943~4)年の頃は、男の人はみな召集令で戦争に行っ […]

歌津町小学生ミュージカル

私が町長時代に行った一番大きな仕事は、何といっても「歌津町小学生ミュージカル」です。平成6(1994)年から合併前年の平成16(2004)年まで11年の間、毎年、公演しました。伊里前小学校と名足(なたり)小学校という2つ […]

農家、酪農家を兼業

うちでは、葉タバコ、米、野菜を作っていました。いろんな野菜を作っていました。大根、白菜は当然のこと、ニンジンも作ってましたね。 今のように野菜を市場に出荷し始めたのは昭和52(1977)年からのことで、その前はすべてお袋 […]

小泉の花火

神社の花火を上げた筒は、今は鉄なんですが、その当時は金属は無かったもんですから杉の木を割って、くりぬいて空洞にして、それを竹のダガ、桶なんか作るときに竹を細く切って編んでグルグル回すあれで、合わせて作ったんです。 それが […]

子どもの情景

小学校に入るころ、親父が栗原の隣の瀬峰(せみね)の小学校に転勤しまして、そのとき私もその小学校に入学しました。その後、小学校3年生の頃、親父は仙台に転勤し、私も仙台の長町小学校に転校しましたが、ちょうどそのころに父親が病 […]

魚竜太鼓秘話

この魚竜太鼓を作るには、いろいろありました。東北博覧会の後に、歌津でも創作太鼓を作りたいということで、佐藤正信さん(民族歌舞団ほうねん座代表)という方にお願いしました。 太古の海に泳いだ魚竜がモチーフだから、私たちにとっ […]

大谷の船乗りのおじいさん

私は昭和2(1927)年8月5日、ここ小泉に生まれました。 私の父親も教員で、本吉町大谷の小学校中学校に勤めていました。自宅は小泉でしたけども、その当時は、教員が転勤していくと家族が全部移動して、そこの大谷の学校の校舎の […]

ひまわりおじさん

小泉に「ひまわり温泉」って言って、お風呂や、シャワー、お茶っこ、夜は少しお酒も出して人の話を聞いたり励ましたり、一生懸命やってくれていたおじさんがいたの。で、ウチの3人の孫達は、皆そのひまわりおじさんの所へ行って、お手伝 […]

避難所

それから避難所で生活して、ここの仮設が当たったんです。6人家族で食料も何も持たずに逃げたからね。 私は戦争中と戦後の物のない時代を知っているから、今、このように不自由になっても、そんなに苦には感じません。当時のやり方も覚 […]

お弁当とおやつ

そのころのお弁当の中身ですか? 梅干が入っていれば、上等なんだよ。沢庵(たくわん)は臭いから、持っていかないんだよね。ほかには、味噌が入ってましたね。おにぎりだの、お弁等缶だのを持っていくこともありました。 甘いものは、 […]

「行方不明」と書け

2番目の高校生の孫は、志津川で、いつもは地震になると学校は子どもを直ぐに帰すんだけど、あの時は学校が子どもを出さなかったから助かりました。 帰るつもりで駅へ行っていたら・・・。志津川駅も津波で流されたからね。 あの日は寒 […]

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