その、年寄は年寄なりに教えて、「こうやるんだ」って、できないことはやってもらって、行政は応援してね。「特区」にして会社にして、そうしたら水産のやり方が確実に変わります。これはチャンスなんです。言葉で説明してもダメです。漁 […]
戦後の経済成長の頃、昭和34〜5年から、40年後半ですね。あの当時ですと、中学を卒業する子どもの40%ぐらいは家を離れて出ていきました。あとの40%くらいは進学し、20%は専門学校的なものへ行きました。地元には仕事が無く […]
終戦後、登米郡の南方に日立の疎開工場がいろんな機械を持ってきて農機具を造り始めたんですね。そこがいいからって紹介してくれた人がいて、そこで仕事を始め、2年くらい働きました。そのうち、小泉小時代の恩師の千葉ツトムさんが、「 […]
太平洋戦争で支那さ行った人は、戦争に出て死んだわけじゃねえんだよ。水が悪いから、みんな戦病死なのね。飢えて、草を食べたの。そんで水がねえから、馬のおしっこ飲んだの。体の弱い人は下痢になったの。野戦病院さ入ると、薬もねえし […]
震災から2日後、長男が死んだと噂で聞きました。 私の長男は、役場に勤めていたので、震災当日も産業課の課長に同行して田束山で樹木の調査をしていたそうです。 地震の直後、すぐにジープで山を降りて志津川の役場へ向かいました。そ […]
お祭りの時に、小泉の川の方でサケ漁の祈祷をやっていたのを覚えていますね。小学校の低学年くらいの頃でしょうか。サケ漁は昔から小泉地方でやってたんですね。 それで祖父が、朝、サケを獲る漁師が寝泊まりしてた川沿いに行って、「今 […]
テレビは部落に2~3台という時代です。親戚の家にテレビを週に1回か2回見に行って、覚えているのは、藤田まこと、白木みのるの出ていた「てなもんや三度傘」、山城新伍の出ていた「白馬童子」とかでしたね。自分の家でテレビを買った […]
震災の時は、ここ(魚竜館)で営業中でした。地震が来たら津波が来るっていうことは頭に入ってるから、日ごろから避難訓練もしていて、まずは、そこの庭の先の広い所に集まる、それから平成の森へ逃げる。あの時はお客さんもいたし、揺れ […]
私は小学校3年生の夏休み、父親が病気になって、小泉に帰ってきたのですが、父親はその年、42歳で亡くなったんですね。 8月の暑いさなか、母親が、父親の枕元にみんな集まれって言いました。母親は、「父ちゃんは間もなく死ぬんだ。 […]
おじいさん(ご主人)は、カツオ漁船などに18年間乗りました。カツオ船は海だからね。半年海に出るんです。4月~9月いっぱい、10月まで漁に出るんだね。あとその他はうちで休んだの。 その間に戦争に行ったり、何度も死ぬ目にあっ […]
私も津波の前には、小泉の地区の歴史についていろいろ調べていたんです。東北の葛西家っていう偉い殿様がおったんですけど、『葛西四百年』っていう資料を書いた学者で佐藤正助(ショウスケ)さんという方がおられます。志津川南三陸町の […]
山形県の立川町(現・庄内町)にいる造形作家に、町づくりの相談をしたこともあります。その方と出会ったのは、歌津にアザラシが迷い込んだ時のことです。タテゴトアザラシの赤ちゃんで、「ウタちゃん」と名前までつけて大騒ぎになった。 […]