東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

気仙沼の天然昆布

戦争当時はまだ良くて、精米でも食べていけたんだけど、だんだんほら、(業績が)落ちて。私が小学校に入る頃から、だんだんダメになって、精米の仕事がなくなってきました。 それでも、海が近いから、精米やりながら、昆布は採ってたの […]

避難生活

入谷で23日間お世話になりました。3月26日に役場から、「電気も水道もない状況では生活が大変なので、登米市、栗原市、大崎市に2次避難をしてもらえないか」という話がありました。コミュニティ単位でまとまったところから優先的に […]

高等小学校・青年学校・女学校

昔は、男の人は高等小学校を卒業するか、青年学校8年まで修了するか、女の人は女学校を出ると先生になる資格がもらえました。女学校を出て先生にならないで家にいる人とか、青年学校を卒業した人達がみんな、夏休みになると、松原に建っ […]

農家の暮らし

あの頃は、畑に麦、いっぱい蒔いたんだよ。それで麦のあとに豆蒔いたから、畑が遊ぶ隙が少しもないんだよね。畑には、粟だの、きびだの、そんなのも蒔いたんだけど、干して、そいで粉にするまで、手がかかるから好きでなかったんだよね。 […]

釜神様

この地方では、竈を作る時、火事にならないように、土でこういうのを作って、神様として飾ったんです。昔は百姓の家には、竈を造る所にはどこにでもあったものですよ。今だと、あそこの上品さん(道の駅「上品の郷」)などで、釜神様を売 […]

3.11被災

震災の時は、自宅から25kmくらい離れた登米市中田町の卸で花の仕入れをしていました。私は農家をやりながら、花屋もやってるのでね。精算が終わって出ようとしたときに1回目の地震があったんです。2回目の地震がものすごく強かった […]

冠婚葬祭

この辺は田舎だから、結婚式や葬儀もいろんな取り決めがあるんです。まさか急に親父がそんなことになると思っていないから、親父にもどうするかなんてあまり聞いてもいないし、年配の人にしたってきっちり覚えている人は少ないし。外野席 […]

菊の栽培

菊を作り始めたのは平成元年(1989)年からです。私より6歳下の及川隆君(JAの元組合長。志津川農協に大学卒業後に就職、花の栽培研修で訪欧後、その成果は「JA南三陸」の主力商品「黄金郷」のブランド菊として開花した)に「菊 […]

階上の縫製工場

気仙沼の父親の実家は、階上(はしかみ)で縫製工場をやってました。そこは、最初から縫製やってたわけではないんです。 昔はね、海のほうをやって、私が小さい頃は大網のサンマの油を絞って、油は何に使ったか分かんないけど、あとその […]

きのこ採り

山へ行けばきのこ、海行ったら釣りね、それから海藻類ね。3歳から山にきのこ採りに行っていっていたんです。誰にも知らせない、ふたりっきりの秘密の場所がいっぱいあるわけですよ。ここでは、共有地、民有地関係なく、山で取れるものは […]

夏場にホウレンソウ

昭和52(1977)年ごろからホウレンソウは市場に出荷していました。当時夏場にホウレンソウを出荷する人はいなかったんです。ホウレンソウはもともと冬の作物ですから。作物には、長日性作物と短日性作物との2つがあって、長日性は […]

小泉地区の神社と神社組織

ここ小泉地区には、昔から小さな集落があって、私は宮司として、八幡神社が本務、それから蔵内(くらうち)という浜の地区の祇園神社も兼務しています。 八幡神社の神職は最初、長男がやっぱりやっておったんですよ。長男が戦死しました […]

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