華足寺は本当にみなさんに見てもらいたいの。 私たち子どもの頃には、お祭りがあるっていうと、授業は午前中だけで、あとはお山(華足寺)さ登ってええってことになってたからね。それだけ学校っていうのは、地方のお祭りってことで、私 […]
まず、製材所の社長か専務か、山を見て、山を刈る。 そして今度は自分の雇ってる4~5人の木挽きさ山に入れて木を切らせる。 切ったのを地駄引きで「なんぼ(の料金)で出してくれ」と頼む。 出したのを今度は自分の車で持ってって、 […]
ここではね、津波で流されたっていうのは、明治の末あたりで。だけんど、ほとんど家流されたという被害はないのね。昭和の津波なんかもちろん、私たち昭和8(1933)年の津波は実際に見てっけっども、ほとんど、家流されたっていうの […]
軍隊の生活は命令通りに動く、牛馬と同じようなものでした。朝3時にたたき起こされて1日が始まります。それから「軍人勅諭」を暗唱します。これは軍隊にはいったら覚えなければなりませんでした。すべてを覚えられない人は、次の5箇条 […]
終戦の日、祖父は私に向かって「いいか。これから俺のいう事をよく聞いて、忘れないように。日本は戦争に負けた。俺もいつ死ぬかわかんない。俺が書き残したものを、今度はお前に託すぞ」と言うのです。 祖父はこう続けました。 「これ […]
慶長三陸地震津波の当時の被害について、私の祖父から伝承している地名とその謂れは次の通りです。なお、地名は、祖父が戸倉村役場に在職中に、青森営林署、地方の方々と立ち合いの上確認したものです。 大津波は水戸辺川を上って、流域 […]
子どもの頃の遊びといえば「木馬(キンマ)」でした。近所に子どもが沢山いたので、先輩の見よう見まねで自分で作って近所で遊んでいました。下駄にカスガイを打って「下駄スケート」もよくやったし、木にロープを結わえつけてブランコを […]
やがて戦争が激しくなると、今度は労働力としての「徴用工」でなく、「少年兵」として徴兵されました。その頃は、国民学校の高等科の頃から、男の子は下士官を志願し、1年生を終えた時点で補充兵として徴用されていく時代でした。軍隊に […]
今回の大津波でなぜ私が生き延びたか。それは孫に助けられたからなのです。 震災の直前、2人いるうちの小さい方の孫が「爺(ずん)ちゃん、温泉さ行って、1週間ゆっくりつかっておいで。お母さんと一緒に12日に迎えに行くから」と言 […]
西條實さんとは、南三陸町の高台移転に伴う新井田館跡の発掘調査が縁で出会いました。1年を通した山の過酷な発掘作業をこなす現場の男子最高齢の西條さんは、皆さんから「語り部さん」と呼ばれる抜群の記憶力の持ち主で、南三陸の歴史・ […]
昭和1年(1938)年尋常高等小学校卒業後、北海道に渡り、室蘭の夜間の養成校で旋盤工技術を4年間学びました。昼間は父の弟、つまり、おじが所長をしていた関係で、日本製鋼に入りました。父の弟が北海道の相川町に婿入りしていたの […]