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志津川小学校から、志津川中、宮城農学寮(農業の専門学校)へと進学しましたが、農学寮は全寮制の2年制、1学年120名の学校でした。農学寮時代は軍隊上がりの寮長がいて、1年目はもう、スパルタですよ。来年上級生になったら下級生をしごいてやろうと思ってたら、その寮長が1年の終わりにいなくなってしまったので、「あれっ」って(笑)。
当時は、親父ぐらいの年代の人が校風に憧れて子どもを入れたんです。当時は人気があって倍率も高かったんですが、農業が様変わりして、入る人が少なくなってきて閉校になりました。その跡地に広瀬高校が建ったんです。
「ひた走る花屋—志津川・中瀬町の花々と星々と」佐藤徳郎さん
[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]昭和26(1951)年生まれ
明治38(1905)年7月7日愛知県生まれ。盛岡高農(現岩手大)卒。昭和8(1933)年埼玉県で農民講道館の創設にかかわり、副館長をつとめる。農業指導者。21年宮城農学寮長となって後継者を育成し、農業の多角化を研究・実践した。昭和52(1977)年11月7日死去、72歳。著作に『東北の農業経営』など。
◆格言など
「本で覚えたスキーでは滑れない」(信条)
「作物を作らんとする者は、根を作れ。根を作らんとする者は、土を作れ」
宮城農学寮は、経営伝承農業に力を入れていました。当時は似たような学校が全国にたくさん、あったんです。なかでも宮城農学寮は、徹底したスパルタ教育で全国的に有名で、まるで軍隊のようでした。
とくに、当時の寮長は厳しくて、近所ではその寮長の名前をとって“酒井農寮”と呼んでいたほどです。寮長は、当時60歳ぐらい。愛知出身で安城農林高等学校という、やはり同じような農業学校を卒業した方です。
定期的に講演会などで学校を空けることがあったんですが、寮長がいる時といない時では、学校の雰囲気もまったく違う。寮長がいないと、「今日は、いないぞ、いないぞ」と、すっかりたるんでしまうんですが、それくらい厳しかったんですよ。
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