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思えば、私は志津川で大火にあって、移り住んだ歌津では戦争で何もなくなって、そしてようやく「いいな」と思ったときに津波でこんなに辛くなって、ずいぶん良くない巡り合わせの生涯だなあって気がしています。
まあ、そのうちに、伊里前契約会の小野寺弘司君に出会って、歌津の三嶋神社の祭典に関わるようになり、ついには神社の氏子総代にさせられてしまって(笑)。50代40代後半からかな。事務局長みたいなことさせられてね。三嶋神社に行くとわかりますが、表の急な階段がありますね、参道はあれしかなかったの。でもそれでは神社が壊れた時困るから、裏参道つくりましょうということで、みんなから募金を集めて、3月にやっとできたとたんにこの災害です。裏参道はこの神社の再興には役に立つと思います。
今から、伊里前の契約会の歴史をぐるっとお話します。伊里前の歴史の中に定置網の漁業権があったんです。昔のこと、私が会長になる何代も前のことで、その漁業権を当時県に150万円で売却したんです。そのお金は、その金額のまま、漁業権の補償基金として今も定期預金にして残っているんです。
当時は伊里前契約会には村を動かすほどの金があったそうです。漁業権を売ったのは何代も前の方々です。
伊里前契約会と、他の契約会との違い
契約会はここの辺の浜ごとにあります。
契約会によってルールはみんな違うんです。しかし『規約』がちゃんと生きてるところは伊里前契約会だけなんです。また伊里前契約会だけが土地や山を持っています。他の会は持ってません。
伊里前契約会の・構成・規約による役割
私が、伊里前契約会の会長になったのは、55才くらいの時かな。1期が2年で、4年間やりました。
会長は、総会でみんなの推薦でなるんです。契約会には16人の役員がいます。会長、副会長2名、会計、幹事2人、山係、芸能部等です。
伊里前契約会の規約による役割は
① 伊里前契約会が代々受け継いでいる50町歩(普通は、1町歩=1ha)位の山を1年に山を2回見に行くんです。契約会全員で。海を見に行ってから、山を見に行ったり、雑木が生えているから切ろうとか、刈り払いをしようとか考えて里山を維持しているんです。それを会長が計画をして、春と秋にある総会にかけるんです。その段取りが大変で。私も会長はやりたくなかったのさ、ほんっとに(笑)。仕事ができないですから。なんだかんだって。
今の契約会はここ3年くらい全然やってないんです。やっぱり代が変わるとこうなるのかなぁ?って、年とった人たちは言ってるんです。なんもしないで、山がどうなるのかなと。今のように3年ほったらかしてあるのは気になります。今は私は顧問だけど、何の権限もない立場です。会員の方に、たまに「あそこ、こうやったらいいのに。」くらいは言います。そうでなくても3月11日の前はみんな海の方で忙しかったから。自分たちの職業ですからね。
②お祭りは、4年に1回三嶋神社の大祭を執り行います。但し何か大きな行事があったりすると、その間でも、お祭りを行います。田束大橋ができた時にもやりました。
私が会長のときには、お祭りに使う紙花を、知的障害者の方とボランティアの方に作ってもらいました。
保健センターで集まって、作り方を手取り足取り教え、時には手伝って。1週間から10日かかったかなぁ。
自分の仕事そっちのけでやらないとできなかったですから。大変な仕事です。
③契約会は、自分が会員になっていても、息子が結婚するとその場で代が交替なんです。私の息子は私が2期やってるうちに結婚しましたから、私も契約会をやめて息子を入れたんです。息子が結婚しなければいつまででも会員です。今81歳の方もいらっしゃいます。跡継ぎいなくて。
④契約会では、特別収入があったりすると旅行に行ったりします。
契約会には代参っていって、もともと契約会のなかで八組に分かれていて、そのうちの2組ずつ神社にお参りに行くんです。春と秋と。総勢約20名で、塩釜神社と、岩沼の竹駒神社とに、お札を貰いに行くんですね。行った約20名で一晩お酒飲んでくるんです。遊びに行ってくるんです(笑)。つまり、朝7時に出発し、朝塩釜神社に着き、9時ごろに御祈祷して、その後竹駒神社に行って、御祈祷して、竹駒神社の近辺でお昼を食べて、そのあとは行き先を決めて遊びに行くんです。北に行く組もいるし、鳴子に行く組もいるし、福島に行く組もいるし。その組で違うんです。代参は、ぐるぐる回りでいくので、遊びに行く組がうらやましいとかはないでね。代参行くときは2組だから、話し合いはあります。お金かかりますし、会計報告も2組だけで開かれます。
総会の時には自分たちで料理するんですよ。前に代参に行った2組でみんなで料理するんです。
どんなものかって? 高級な料理ですよ(笑)。季節のものです。秋には地元で採れる白菜、牡蠣、タコ、さしみ、煮魚などを料理し、春にはメカブだの、ワカメだの、ホヤだの、春マスの塩焼きにして食べさせるんです。行ってきた男連中でやるんです。経費は会から半分出て、個人で2000円ずつ出すんです。いつかなぁ。こういうことしねえで、民宿でやるか!?って話になって。けど、今まで続けてきたもんだから、ずっと継続していったほうがいいんでねぇかと、そのまま継続してるんです。民宿でやるのは楽なんだけど、自分たちでやったときの味が出ないんでないんかなぁ。作るのが楽しいんでねぇ。家では何もしないような人が、出てくると やってるんですからね(笑)。準備は組長(班長)が取り仕切るんです。
戦国時代には、歌津町のなかでも戦いがあったんです。魚竜化石のある館崎、あそこには昔、館城(たてじょう)という城があって、それと牧野家が戦って、勝ったらしいんです。そして、その勝利の日を三嶋神社のご縁日にしたのだそうです。魚竜館のところにある管の浜(くだのはま)の前の山際の道路のあたりは、昔は全部湖でした。だから沼深(ぬまぶかい)という屋号になったとか。そういう、いろいろな歴史が書かれてあったんだと、私の祖父ちゃんは残念がっていました。
祭りの前には、必ず田束山に登ります。神様をお迎えに行くんですね。祭り前日の午後には神社に行って、神輿の担ぎ手は神官に祈祷をしてもらい、神輿に魂を入れてもらう。そして、翌日、祭りの1日目の午後には神輿を出して、45号線をずーっと魚竜館まで行って、神輿をきれいな海の水と塩で清めるんです。昔は違う場所で清めていたと言います。担ぎ手は、口に白い紙を挟み、白装束と地下足袋を履きます。地下足袋も昔は草鞋です。奥さんが妊娠をしている人は担ぎ手にはなれません。
また、祭りの前は、松の枝や竹を切って神輿の歩くところを全部、清めて、各家の前に縄を張る。神輿行列が通る魚竜館から45号線に向かう沿道もず〜っとです。これが、ひと仕事なんですが、伝統だからやらないわけにはいきません。担ぎ手も疲れますから、神輿の休憩所を作り、そこでも軽くお神酒を飲めるようにしておきます。こうした準備が本当に大変なんです。でも、伝統ですからやらざるを得ないんですよ。
祭りの2日目は、朝の10時に、神社から暴れ神輿が降りてきます。私も担いだことがあるけれど、誰も止められないほどの勢いなんですよ。神社の階段の下では、お囃子が流れて獅子が舞うんです。
これは京都からの流れを汲むもので、5つのお囃子を繰り返し演奏する。勇壮な“通り囃子”は、聴くと心がうきうきしますよ。自分も祭りに出たような気になるね。そこに、神社の階段からロープで吊るされた神輿が、だーっと揺れながら降りてくる。これがクライマックスで、最高なんですよ。そして、神輿の列は夕方には三嶋神社の神館に向かいます。神館に近づいたらお囃子と獅子舞が入れ替わり、屋台を先頭にして神輿も神館に入ります。ただね、今回の津波で、この神輿も神館も、みんな流されてしまいました。
地域の祭りは芸能部の役割です。昔は契約会だけで行っていました。太鼓も契約会の子どもしか叩けなかったんですが、だんだん子どもも少なくなったので、いまは伊里前の子どもなら誰でも叩けるようになりました。最近は祭りの運営も子ども会と共同で行うようになっています。
契約会主催の伊里前の祭りは、どちらかというと伝統芸能みたいなものですね。必ず、毎年やるというわけではないんです。原則として4年に1回は開催しますが、今年の祭りをやるかどうかは、春に町のみんなで決めます。たとえば、契約会の会員に不幸があったら、来年に先送りします。逆に、バイパスの開通や、田束山(たつがねさん)のダム橋の完成のような町の大きな事業があれば、その記念も兼ねて開催します。
お祭りは、三嶋神社が中心になって行われ、御神輿も神社にあります。
ただ、神社には神社の祭典がきちんとあって、それは太鼓を叩いて拝むんです。そして、祭りとなったら神輿を出して、村の若者が担ぎます。この神輿は、120年くらい前からの山伏の山岳信仰に由来するもので、田束山の神輿でもあるのです。山形の羽黒山とも関係があり、樋ノ口という地名も羽黒山と縁のある地名だそうです。田束山は奥州藤原氏が信仰したといわれる霊峰で、田束山を尾根続きに1キロほど南に行った満海山は、出羽三山の修行僧がミイラとなるために入定したといわれています。
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