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養父は遠洋漁業の船乗りでした。ずっとね、マグロ船に乗って、北洋とかに行ってましたね。若い時は、カレイやカニも獲ってたみたいですけど、私が覚えてるのはマグロですね。一度船ででると、3カ月から半年ぐらい帰ってこないんです。たくさん魚が獲れれば帰ってくるのは早いけど。そういう生活ですよね、船乗りはね。
今朝も、気仙沼の鹿折(ししおり)まで行ってきましたが、まあ、驚きますよ。工場は焼けてメチャメチャだし、水も来ているし、あれでは寝ることもできません。半年経ってもあの状態とは、酷いものです。1回行ってみたらよく分かると思います。それでは、歌津の復興はどうするのか、という話です。
歌津は海と山の町です。とくに漁業は盛んなので、まず第一次産業を早く立て直したい。
でも、船を揃えるにも、ホタテや貝の動力船だと9トン級の漁船が必要です。そうなると、少なくとも5、6千万円はかかりますから、家を建てるより高くつく。しかも、それは船を揃えるだけの金額で、漁を始めるにも5、6千万はかかります。この地域で考えたら、ワカメや海藻、アワビなどを採る24尺くらいの強化プラスチックの船でも一隻何百万円。それにワカメの資材なんかを揃えると5、6百万円はかかるでしょう。それから、資材を置く土地も必要です。それなのに、土地はない、家もない。土地だけでもあればいいけれど、仮設住宅に入っている人はそれもないんです。しかも、2年の期限が過ぎたら、出て行かなきゃなりません。だから、早い段階で資金が必要です。神戸などの震災とは状況が違うんです。
しかし、「自然にはかなわない」。農業をやるにしても、今回の震災にしても、相手が自然では、どうしようもないですね。これは、吉川英治が書いた『宮本武蔵』を読んで改めて悟りました。武蔵は精神統一のために山にこもり、畑を開墾して自給自足の生活をしたんですね。そして、畑や田んぼは、自然から幾度となく被害を受けました。そのうえで、自然には勝てない、自然を利用しなくてはだめだと悟った。だから、佐々木小次郎との巌流島の対決でも武蔵は朝日を背負って立つ。そこで構えたときに、小次郎の目を朝日がくらますんです。私も、武蔵ではないんだけれど、やはり自然には勝てない、うまく利用することだと、つくづく思います。
戦争中は、男手が(出征で)無くなってしまい、田んぼは働き手がないから、学生さんが来てやってくれていたんです。今みたいに農機具がないから、田んぼを軟らかくするために、足で踏んだんです。牛や馬が入れる田んぼはそうやってしたんだけど、このころの田んぼはみんな膝の上までの深さがあるほど深かったんですよ。
昭和40年代は漁業の色々が変わった時で、大きく変わったのは、その船舶免許と漁業権の2つですね。色々変わるとかっていうのも、漁師ばかりの付き合いじゃ、わからないんです。参事さんや、知り合いから、様々な情報が入ってくるんです。情報を教えてくれるからね。一番大事なことだと思います。制度が変わる、何が変わるっていうのはね。
早く情報をキャッチしたから、うまくすり抜けたというのではないと思っています。「時代に乗っていった」っていう感覚です。漁師っていうのは、基本的に、みんながどうやって魚を獲っているのかな?っていうのを見て体で覚えます。だから、どうしても漁師は漁師の中しか見てない。私はもう、いつも外を見てたから、だから、その違いかもしれないと思います。
昭和40(1965)年ごろからは、毎年、東京などに出稼ぎに行くようになりました。娘の生まれた頃です。4月頃からだいたい10月、アワビの開口の頃までいて、開口に間に合うように帰ってくるんです。4月から半年は確かに長いです。6カ月働いて90日失業保険を貰い、終わればまた働きたいってそういう巡りになる。1年の残りは漁業で生活するんです。
タコはだいたい、アワビの開口終わった頃に網や籠で獲るんです。アワビは11月からです。だいたい年に5回か6回ぐらい開口するんです。それも天候見ながらですから、天候が悪ければその年は4回のこともあるんです。逆に天候が良ければ6回までは行けるね。この開口の時もみんなで漁に行くんです。
アワビを獲るときは、潜り漁は禁止なんですよ。網も禁止。獲りすぎるから。終戦後なんか網ですくって獲るもんだから、アワビの数がいっぱいだったんですよ。獲るのはいいけど、全部身を剥くから、獲るより人手がかかったんですよ。そんなふうに、みんなが乱獲をするってわけで、それ以降はみな、カギで一個ずつ獲るようにしたんですね(図1)。こういうカギでね。深いところで5メーター6メーター、浅いところで2メーターあるね。
ウニの季節は6月から7月です。私が若い時、ある年はひとりで、ウニを60キロくらい獲った事もありました。そのときは、朝6時からだいたい10時までずっと漁をしてましたね。
アワビは今でもやります。去年はひとりだけど採りましたよ。最近はなかなか数量が少なくなってねぇ。その年の開口を通して、10キロくらいでないかな。去年の相場はキロ7500~7600円でしたね。
農業より、やっぱり海の方、アワビやウニ、ワカメのほうが収入になったんですね。しかも、アワビだってワカメだって家族の多いところは、よその家より余計に獲るわけですよ。5人も6人も行って採ることもあるから、その分、収入がちがうわけです。
だから、開口には、健康な人はみんな行きますね、母さんだって婆さんだって、その家にいて、健康な人はみな一緒に行くんですよ。船に乗る人数は、家によりますが、何人乗りだろうがかまわないんです。ひとりで行く人もいれば、3人乗って行く人もいましたしね。
ウチは、畑も海も家族全員でやります。母のお店のお休みは月曜日、父の仕事の休みは日曜日だったから、みんな一緒のお休みがないでしょう? だから、朝5時に起きて7時まで畑をして、それから朝食を食べて両親は仕事、私たちは学校へ行って・・・。
とにかく家族みんなでやるんです。1年365日で家族全員お休みというのは元旦だけ。元旦だから、そんなに寝坊もできないんだよね。私たちは、そうやって手伝うというのが当たり前で育ちました。農作業も漁も、家族全員でやるもんだと思っていました。
今後の夢と言われても、まだ余裕がなくて、そこまで行かないなぁ。とにかく政治家の仕事って言うのは、そこに住んでいる方々が安心して生活することに尽きます。そこには経済的なこともあるし、防災的なこともあるし、全ての面が関係してくるわけだけど、やっぱり「ここで生まれて良かった」と、そう思ってもらえるようにしたいですね。
地域の安全と産業の振興とあるけれど、そこで自分が出来る範囲で、それに向かって励むしかないと思います。みんな協力し合いながらみんなが幸せに暮らせればいいなということです。
ここはやっぱり一次産業、水産業が大事なんです。これをはやく復活させることなんですよね。養殖場があるから、そこがうまくいけば、生活にゆとりが出てくるからね。
「水産特区」を知っていますか? 県知事が発言し県議会でもその方向で行くのに決定しているものです。要するに民間の資金を利用して、民間の方に漁業に参入してもらうということです。
具体的には、漁業権行使の書き変え時期にあたる平成25年までには確定します。そこで県知事が区画漁業権の許可を出すんですが、これからは民間にも出しますよ、というふうな内容なのです。
漁民の中には反対してる方々もありますよ。単純な既得権が脅かされるから反対だ、反対だ、と言う。そうじゃなくて、結局今、漁業施設が壊滅状態で、自力で再建が出来ない人もいる。若い人が後継者にいて、これから30年も40年も事業を継続できるよっていうところばかりではありません。
たとえば事業主が50代、60代で、息子は別の仕事をしてる人、後継者がいなくて自分で終わりだという人の中には、借金をして昔のように復活できるかっていうとやれない人もいるんです。国が再建資金の3分の2の補助をくれるといっても、数万円でできるものではありません、何百万、何千万とかかるんです。むしろ民間の業者に来てもらって、そこで一緒に働くとか、サラリーマン感覚で、給料を貰って働きたいという人もいるわけです。
だから産業復興というのは、やりかた次第だと思います。何も今まで自分たちが漁をしていた、そういう生活を邪魔されるわけではないわけです。県知事が許可を与えんのは限定した部分で、何もかもを渡すわけではないのです。漁業権という権利をもともと持ってた方々が全部放棄させられるわけではなく、ある程度の分野に就いては民間に譲りましょう、ということなんです。民間は漁民ができないことをやってもらおうということ。だから、私は賛成なんです。
民間の業者が来る事によって、販路も広がってくるわけで、今までが「作り育てる漁業」だったのですが、今は「売る漁業」なんですよ。付加価値を高めると。そうすると販路も広がってくるし、今まで10売れたものが12に、15になるかもしれないんです。要するに、漁民の方々の収入が増えればいいと思いますね。
この震災をきっかけに、漁業の形も変わってくるだろうと思います。そう考えないと、これからの経済社会を進んでいけないと思いますね。人間の意識の方向変換が大事です。