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契約会の役職は、会長、副会長、会計の3つで、普通は会計、副会長と経験を積んでから会長になるわけですが、私は特例で、いきなり会長を務めました。会長といっても、契約会の結束力がありますから大きな権力があるわけではありません。春と秋には、会員全員が集まって総会を開きます。大きな話し合いはこの2回だけです。
そこで、山の刈掃いの時期や回数、会計報告、そして会員が嫁さんをもらったりして新会員が増えれば、その紹介なども行って、食事会で団結を高めます。昔は会員が支度をして餅をつき、期単位の持ち回りで手料理を振る舞うのが決まりでした。8つの期のうち2期が食事を作り、残りの期がご馳走になるんです。しかし、今はお膳も使わずビニールを広げて済ませるし、食事も総菜を買うことが増えたようで、簡単になってきたみたいです。昔の形はなくなりましたね。総会は、いつも契約会館で行っていましたが、津波で流されてしまったので、現在は適当な場所を見つけてやっているようです。
契約会の会費はありませんが、総会の時に1人千円を必ず出していただくことになっています。80人いれば、それなりの金額になります。あとは祭りで太鼓を叩いたり、山車を出したりして寄付をいただいたり、山の木を売ったり土地を売ったりして運営をしてきました。それから、昔は定置網の漁業権も持っていました。毎年春には契約会を代表して20人が、岩沼市の竹駒神社(承和9(842)年、小倉百人一首で有名な参議小野篁(おののたかむら)卿が陸奥守として着任した際に、奥州鎮護を祈願して創建された)と、塩竃市の塩釜神社(国土開発・海上守護・安産守護・武徳の神として全国に知られている)に代参します。そこで、ご祈祷をしてもらい、商売繁盛・家内安全の札を会員分もらってきて総会で配ります。そして、総会が終わったら、今度は組ごとに分かれて、組長のところでお茶を飲みながら話をするんです。
契約会は、江戸時代から続くこの地方の相互扶助のような組織です。伊里前契約会は、元禄6(1693)年に歌津の伊里前で先祖が町割をしたときに組織されたといわれます。伊里前は、私の先祖が兄弟3人で作ったんです。牧野家は、志津川の朝日館(あさひたて)と中舘(なかだて)の中間に、牧之内城という城を構えた戦国時代の陸奥領主の武士、葛西家の一族の末裔なんです。兄弟は3人で町を区分し、切り出した山の斜面の山側を上町切(かみちょうぎり)、海側を下町切(しもちょうぎり)としました。ちなみに、牧野家の山から降りてくると役場がありますね。その役場の脇にあった蔵も牧野家のもので、資料置き場としてずっと役場に貸していました。こうした記録は「検立書」に保存されています。
契約会ができた当時は33世帯の組織だったそうです。一時は80世帯までになりましたが、跡継ぎがなかったり移転したりで世帯が抜けて、現在、77世帯になっています。農業より漁業が多く、約7割は漁業ですね。
そのうち74戸が津波で流され、今、残っているのは全部高台の家です。ちなみに、牧野家の本家はうちなんですが、たとえば、私が嫁をもらったら代理で下町切が本家になります。下町切に何かがあれば、今度はうちが本家です。そうして上町切と下町切の家が入れ替わりながら、その役割を果たしてきました。
契約会会員の権利は、家の長男が嫁をもらうと親から引き継ぎます。息子に引き継いだら親は引退で契約会には参加できません。いくら祭りが好きでも、だめ。年寄りは去るんです。こうして代々、新陳代謝を繰り返し、受け継がれてきました。息子がいなかった場合、嫁をもらわなかった場合は、引退せずに、いつまでも会員として参加することができます。しかし、最近は長女の婿も会に入れるようになりました。私の場合は、父親が早くに亡くなったので、一緒に住んでいた叔父が会員になり、私が働くようになってから、別家に出しました。
契約会では10人1組で「期(ごう)」を作り、一期組、二期組…と呼ぶのが習わしです。みんなで旅行に行ったりすると、「おう、組長!」なんて呼び合うものだから、仲居さんが驚いていました(笑)。私も2年くらい、組長を務めました。その時に、魚竜太鼓を作ったり、旅館に泊まったり。県の商工部と交渉してなるべく予算をかけないように工夫もして、宮古や東京ドームへも行きました。