それから避難所で生活して、ここの仮設が当たったんです。6人家族で食料も何も持たずに逃げたからね。
私は戦争中と戦後の物のない時代を知っているから、今、このように不自由になっても、そんなに苦には感じません。当時のやり方も覚えているからだと思います。それでも、仮設に入る前の晩だけは眠れなかった。だって、避難所で、夜の8時過ぎに「話があります」って呼ばれて、「仮設が当たった人は、明日の10時から、ここの集会所で説明会があります。説明会が終わったら鍵を渡されるので、荷物を運び出してください。夜からの食事はストップです」って言われたの。
米も無い、味噌も醤油もない。あるのは自分たちが食べないで残しておいたパンが10個くらいです。カップラーメンが配布になっても、家族1人の人も1箱、ウチのように6人家族でも1箱。パンだって、ラーメンだって、6人で食べたら2日持たないでしょ。1人の人は12日も食べられるんだよ。本当にあの時は「どうしよう〜」って眠れなかったね。
次の日「避難所に来てください」って呼ばれて行ったら、米2キロ入った袋を2つずつ渡されて、それでおしまい。この時も、世帯の人数が1人でも6人でも2つずつでした。
避難所にいろいろな団体さんが来て、給食支援があるよね? そういう時、私たちもいただきに行くっちゃ。そうすると、何も悪いことしてないのに「仮設来るなー」って言われました。悲しいよね。
欲しい時に欲しい物がもらえなかったからね。暖かくなってから冬物をもらったり。
春休み前で、学校の荷物を家に持って帰って来ていたから、高校生の孫娘は電卓を2台とも流されてしまって、ビジネス科に通っていて電卓試験を取りたいんだけど、電卓がないからそのまま受験できずにいます。試験用の電卓って普通のと違うんだってね。
「埴生の宿 Home, Sweet Home」幸田理子さん(仮名)
[宮城県気仙沼市本吉町]昭和12(1937)年生まれ
投稿日:2012.01.01
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