その後、6月15日はうちの父親の命日だから、14日にここの仮設住宅(平成の森仮設住宅)に入ったの。そしたら何も知らないでいたんだけど、いつまでもここに入居しないでいるとカギを取り替えられて入れなくなってしまうんだって。何も勝手がわからないまま、周りにどんな人が住んでいるのかも知らないままだった。私は志津川の人間だからねえ。ここまで来て落ち着いて、みんなにここへ来たのはこういう訳だと話したら、ほっとしたよ。
でも、ここは夜になると波の音が聞こえるの。だからいくら早く床に就いても、その音が気になって寝られなくて、夜中の2時3時になってしまうんだ。そんなことが続いたから、体も心も、頭もみんなまるっきり、言うことをきかなくなってしまったよ。だからね、お世話になってきた人にお手紙を送ろうと思っても、そんなの全然書く気がしなかったの。そうこうするうち、あっという間に1カ月も経ってしまって、いまさら手紙を送るのも恥ずかしくなって、送れずじまい。
そんなある日、お酒を2本いただいて、1本はみんなで分けて飲んで、1本はお世話になった旅館に送ったの。そのお酒は、名足の高台にあって流されずに残った家が3〜4軒あって、そこから呼ばれて「何だろう」と思って行ったら、「お酒があるから」ってもらったものなの。旅館の方からはお礼を言って来ませんでしたが、私も同じようにお礼できずにいたからね。そんな風にいつも悪いことばかり起こるわけではないから、なにかしてもらったときには海藻でも何でも送ってお返ししようと思ってるの。今は旬のサンマでもあれば送ってあげたいけど、今年は無理だね。物資をいただいたときも嬉しくて、こっちで揃えた物は壊れてしまったし、新聞もテレビもなかったから。「ご飯です」って呼ばれて、あの階段に下りて行くと、私は歩けないから、周りの人が行ってくれて。隣のお兄さんに声をかけてもらったけど、あちらも忙しそうなので、お礼も言えないままだ。真面目な人だった。その人のお母さんは具合が悪くて、目も見えなくなってどこか遠くに運ばれてしまった。
「いつも明るく朗らかに!」佐藤はぎのさん[宮城県南三陸町志津川]昭和2(1927)年生まれ
投稿日:2012.01.02
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