北海道から帰ってきてから、炭焼きの仕事を始めました。炭焼き窯も2つくらい持ったりして、夜通し働いて。なぜなら炭焼きの仕事は、きついのですが、働けば働いただけ稼げたのです。畑仕事で日当をもらっている身分では、雨が降ったら仕事ができないから、給料がもらえないでしょう。でも炭焼きの場合は、天気のいい日には一生懸命木を切って集め、雨の日は炭焼き小屋で炭を引いて片づけたり、天候にかかわりなく、何かしらすることがあって、365日働けたのです。
しかし、それでも決まった収入しか入らないので、今の世の中、これではだめだと思い、車の免許を取りました。田んぼから稲を積んでくるにしろ、山から木を持っているにしろ、その頃は荷車でものを運んでいた時代で、自動車などなかったのです。だから、これが仕事になる、と思い、自動車を買うお金はなかったので中古のオート三輪を25万円で1台買って、1回600~1000円くらいの料金で荷物の運搬を請け負いました。1日に5台は運ぶことができました。
ある程度仕事も増え、1トン積みの三輪車では荷物も積みきれなくなり2トン車を購入しました。農協からも配達の仕事を頼まれ、運送事業も順調に推移しました。その頃、父は木炭組合(炭焼きをしている者200人ほどで構成された組合)の専務の仕事をしていました。生産された炭の一部は業者に、一部は農協に出荷していましたが、農協では木炭の販売で多額の赤字をだし、理事会で木炭の取り扱いをやめることになりました。
生産された炭は在庫が増え、業者に安く買いたたかれる状態で、それを見かねた私は、木炭の販売を引き継ぎ県内の農協に販売をしたのでした。
「遠き桃源郷~少年の見た満州引揚げの悲劇~」小野寺幹男さん
[宮城県登米市東和町米川綱木]昭和20(1945)年生まれ
投稿日:2012.01.07
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オート三輪, 木炭, 木炭組合, 炭焼き, 米川, 農協, 運送事業
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