ここは、1軒残らず流れました。明治以降、昔からの家は全部です。お寺まで流されました。チリ地震のときは道路が濡れて床下くらいでした。前も話したとおり、この辺りはあんがい被害の少ない場所だったんです。明治のときも伊里前の人は2人くらいしか亡くなっていません。伊里前と言うところは、三陸町でも中心地でした。方々から用足しにやってきて、買い物をして帰っていく。年寄りはここでお酒飲んで帰る人もあるし、お菓子食べていったり、集合の場所でもあったんだと思います。
朝になって、もう火にくべなくなったので、避難所にいて、朝早く戻ってみたら、ここ(小学校)まで打ちあがってました。そして、下を見たら、何もない。伊里前の町が本当に何も残っていませんでした。4キロくらい海までずっと瓦礫ばかりがずっとです。
警報がどうなったとか、連絡も何もありませんでした。電話が来るわけでもない、ラジオもない、テレビもなかったです。家の茅ヶ崎にいる弟が、ラジオで尋ね人で貞雄さんのところを呼んでいるよと人づてに聞いても、連絡のしてみようがなかった。5日目にようやく災害電話が通じて、一言二言声を聞いて話すことができました。
「縦の糸はあなた、横の糸は私──夫婦の自分史」千葉貞雄さん・きちよさん
[宮城県本吉郡南三陸町歌津伊里前]昭和4(1929)年生まれ
投稿日:2012.01.01
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