避難したのは、歌津中学校の体育館です。あの晩はかなり雪が降ったんですよ。
まずは下の小学校に駆け登って、たどり着いて、少し疲れて休んだんです。伊里前小学校のプールの近くです。
そうしたら、同級生がそこで亡くなったと後で聞かされて、俺が休んだ直ぐ近くで亡くなったんだなぁと思いました。私の場合は、どうしてこうしてよくわからないけれども、すっかりずぶ濡れで中学校へ避難しました。寒くて寒くて・・。
そうしたら、どこから持ってきたのかわからないけれど、パンパースをもらって一晩履いて過ごしました(笑)。将来の練習をしたのかな?と笑いました。それで、3日間中学の体育館にいました。
それから今度は、平成の森に畳を使っている部屋があって、友だちが「こっちに来たらいいんじゃね?」と誘ってくれたので、そこでまた3日3晩くらいです。その後、知人の踊りの名取をしている方がいて、そこの津波を被らなかった稽古場をお借りして、そこはかなり長く3カ月くらい過ごしました。それで、ここに抽選が当たって入居したんです。
仮設というのは、自分ではどうにもできないでしょ? みんなが一線です。「お金持ちも、貧乏人も・・」って言葉があるけれど、そういう感じ。みんなスタートラインに一緒になったという感じです。
お金持ちの人はそれなりに銀行に預けてあったり、そういうことはあるだろうけれど、それにしても、スタートラインに立ったということだけは事実だと思います。だって、みんな同じです。隣に住んでいる人のところは、やっぱりここと変わらない。仮設住宅を作った会社によって間取りとか造作に少し違いがあるかもしれないけれど、大体は同じです。
私は、ここ(平成の森仮設)の人はだいたい知っています。隣の家は、私より1つ後輩なんだけど、行方不明のまま半年過ぎたからということでお葬式をしました。見切り発車だな。道路を挟んでそっち側は女房を亡くしたとか・・。できるだけみんなで励まし合いながらすごしているという感じです。色々考えてもしょうがないなと、そんな風に思っています。
津波で流されたけれど、おふくろの位牌は見つかって届けてもらいました。おふくろは体が弱かったんです。人工肛門ってあるでしょう? 今は普通だけど、この辺ではおふくろが最初でした。ヘモ、痔が悪くて人工肛門の手術をして、そんなふうでも結構長生きしてくれて72歳で亡くなりました。ま、俺の年までは生きてくれました。
「歌津↔志津川 駆け抜けて・・」及川 徹さん
[宮城県本吉郡歌津字伊里前]昭和13(1938)年生まれ
投稿日:2012.01.01
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