その後は、電気も無いわ、電話もないわ、水道も無いわ、ろうそく1本で何カ月暮らしたか。水は下の井戸から息子が両方提げて、運んでくれました。流された家の井戸なのね。つるべって言うか、綱つけて、そして汲んだの。何でも無いば不自由だが、やっぱり、水ですよねえ。洗濯もできない。何日か経って、洗濯もの背負って、娘のところにやっとの思いで行って、大変でしたよ。だから、水道来た時、嬉しかったねえ。2カ月以上じゃないかな。
寒かったけど、ここストーブが1台あったの、ちょうどそれでご飯も炊けたの。石油はちょうど運よくポリ缶で6つ運んでもらったばかりだったから。ここで湯を沸かして湯たんぽを入れてもらって。そしてねえ。そんなあれを思い出すとホントに・・。
電気が無いから、凍結庫のものはさんざん溶けてしまって、もったいないけど捨てました。食べ物が無くてね、「あれ~?」と思ったら、避難所から若い人たちに、お米やら缶詰やらいろんなものを運んでもらいました。助かりましたね。
孫たちが心配だからタクシーに乗ってでも来るって言ったそうです。「来られたらおばあちゃん大変だ、水もないし、電気も無い。なんとかして後に来てくれ」って、そう言ったがね。アハハハ。
電話もここは4カ月ぐらいかかったかな、ずうっとむこうの道路沿いの方は何でも早く来たんだって。ここは全滅だからしばし来なかった。
息子が地震のあと、しばらく一緒に暮らして、ずっと付いててくれたったから良かったんです。息子は会社の仕事もいっぱい溜まってたみたいで、「一回行って来る」って。「とても私ひとりで暮らされないなあ、1人でいられねんだったら、息子と一緒に行ってなんぼでも暮らしてみよう」って、ついて行ったんです。そしたら何にもすることないんだもの。座ったらそのまま。「どうやんべ」って。
玄関から出たって誰も知ってる人もないし、声かける人もないし、あと嫁さんと息子は会社に行ってるし、それも耐えられないの。4晩泊まって5日目には、「なんだ、あんた、今朝全然元気ないんだが」って息子に言われて、「家さ帰りたくなったんだ」「来(く)っと、今度は家さ帰りたくなったって。どっちなの」「うーん、やっぱりなんとしても家さ帰りたいな」そして5日目にはここさ来てしまった。やっぱり何十年住み慣れた我が家の暮らしはね・・。
「新屋のみっちゃん、昔がたり」丘 美津江さん(仮名)
[宮城県気仙沼市唐桑]大正15(1925)年生まれ
投稿日:2012.01.01
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