東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

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自分史

謡い舞う、神々の見守る浜で
佐藤良美さん[宮城県本吉郡南三陸町志津川]

まえがき

この物語は、今や町の宝、無形民族文化財となった「石浜神楽」を歌津に根付かせた方の物語です。

歌津に生まれ、戦中戦後の激動期にも、いつも心に歌と踊りがあった良美さん。語り口は飄々としていて、茶目っ気もあって、聞いている私たちが思わずクスッと笑ってしまうような温かさがあります。

奥様の合いの手も絶妙。家の内と外でそれぞれの役割を存分に果たしてこられたご夫婦の強さというものを感じずにはいられませんでした。それと同時に、表立って何かをおっしゃるわけではないのですが、そこはかとなく相手の言うことを受け入れたり、さりげなく体を気遣われたり、とても素敵なご夫婦でした。

ここにこうしてお話いただいたことをまとめてみますと、神楽の発祥から伺える機会などそうあるものではなく、改めてお話を伺って本当に良かったとしみじみ感じています。貴重なお時間を割いてご協力いただき本当にありがとうございました。お2人のご健康と、石浜神楽の復活を私たちも心から願っております。

2012年5月19日

RQ聞き書きプロジェクトチーム一同

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佐藤良美さん(左)・文子さんご夫妻
夫唱婦随、奥様の絶妙の合いの手を受けながら
良美さんにユーモアたっぷりの口調でお話いただきました。
編集にあたってはお2人の人柄の温かさを、
そのままの形でみなさんにお伝えしたいと願い、
方言をできるだけ残した形とさせていただきました。

歌津が村だったころ

歌津が村だった頃は、私(おらい)のおばあさん(お母様)は、寺子屋っていうところに通っていて、4年で終わり。学校に4年生までしか行かない時代です。ずっと前さ。私らの生まれる前のことです。明治生まれだものおばあさん、今生きてたら100歳超えてますよ。
寺子屋のあった場所は、今の歌津町の漁業協同組合のあったところで、組合が寺子屋の土地を買ったの。あそこで勉強したんですね。
小学校は後からできたんです。最初は雄飛小学校というのがありましたが、それが無くなって名足小学校っていうのができた。だれも名足を「ナタリ」とは読めねえべ。初めでの人は「メエソグ」「ナアシ」と読んで「ナタリ」とは読めねぇべさ(笑)。

良美という名になったわけ

私は昭和2(1927)年生まれ。誕生日は2月5日。私の名前は良美って女子(おなご)みてぇだけっども、なして良美と名づけたかっていうのは、こんな「言われ」があんの。

私の家は7人きょうだい、母親は子どもを生んで33歳のとき、父親(おやんつぁん)が39歳で亡くなったんです。それでねぇ、4人(よったり)の男兄弟は、私以外、兄貴たちはみんな、兵隊だ何だって行って亡くなったのもあるからさ。中でも、一番上の兄さんは、検察事務官やってから裁判官をしていたりしたんだ。だけど、私だけ残ったの。うちのおばあさん(お母様)が「男ばかりだから、今度は女子(おなご)が生まれないとワカンネ(だめだ)」って言って、今度の子が出たらば「良美(よしみ)」と名づけると決めていて、男の私が生まれでしまったけど、そのまま「良美」の名前でつけだの。それこそ、もう男は要らなかったの。なんして私がこんな名前にねぇ。いやいや、後からその通り、妹が2人出た(生まれた)けんども、そういう時もあったね。

私のお父さんは昭和5(1930)年に亡くなりました。私が5つの時です。今の子どもたちはテレビ見たりして良く知ってるから、人が亡くなるということがどういうことか、すぐわかる。私は本当の子どもだったんだね、わかんねぇんだね。
父親が死んだ時に、まさか死んだ人でねえっぺね、と思ったから、ふすま開けて、父親の頭にハチマキさせてさ、盥(たらい)みてぇなのに腰掛させたのを見てたんだね。立棺(ご遺体を座らせてお棺に収めること)で土葬だがらね。ただそれ見てたんだけど、死んだなんてわかんないもんだから。すっと、部屋の向こう側から来たお婆さんが、入棺してるのを子どもに見せたくないから、ふすまをバチッと閉めたんだ。

お父さんという人は脱腸(ヘルニアのこと)だったの。ここの医者は気仙沼から来てたから、交通の便が悪くて、来るのにも時間がかかって、手当てが行き届かなかったんだね。そのせいでお父さんは39歳の若さで亡くなったの。誰が今、脱腸なんかで死にますか。
その時お母さんは33歳でした。お父さんと6つ違いだったんだね。

お袋はそれから、7人の子どもを育てだんだ。今の人たちなら「子ども手当て」が出るでしょうが、その頃は、手当てなんか何にもなかった時だ。今はせいぜい1人か2人子どもを産んだくらいで、「手当て、手当て」って騒いでいるご時世なのにねぇ。
うちの家に、町から、「補助のお金をもらって食べていったほうがいんでねぇか」って言ってきたらしい。私(おらい)のおばあさん(お母様)は、あの通り元気がいい人だがら、「いらね」って、最後までお金を貰わないでいてしまった。津波の後も家財を流されてしまった人がお米や金のお箸を貰っていましたが、うちは貰わないでしまったよ。うちは麦ご飯だべ。私も米っこ食いてえなと思ったけど。

子どもの頃の遊び

小学校は8年通いました。昭和8(1933)年、津波の年に小学校に入ったの。子どもの頃は、いつでも「陣取り」したの。
「陣取り」ってわかる? 隣の家と隣の家で、じゃんけんして、隣の家さ、相手よりも早く「陣取って」攻めていくんです。「陣取る」っつうのは、柱でもなんでも良いから、とんとんって跳ねて行ってね、相手よりも早く行って、端にすがりついた人が勝ち。
あとは、野球。野(の)野球(草野球)だけどね。今のような活発な服装でやったんでねえげっと。私は、ピッチャーでなくキャッチャーのほうでした。

海藻採りの名人だった母

実家は百姓でした。それから、海仕事もしていました。アワビを獲ったり、ウニを獲ったり、あとは、歌津の海藻を一生懸命採ったんだっけねぇ。おらいの(うちの)お袋は、歌津の中でも海藻をたくさん、採ったほうだ。みんながカゴ1つぐれえと採る時は、2つぐれえ獲ったもんです。自慢でねえけど、それ位だから、腕では他の誰にも負げねんだ。「磯の博士」だ。
私は、お袋に「こういうふうにやるんだ」と教えられたんだね。「海藻を採るのに良い所はここだから、ここで獲れ」って、教えられたの。それが、やっぱり、勉強になったんでねえの。ちゃんと獲らねえど、お袋に怒られたから。海藻を採る時は、ざるのようなものを持って行ってね、それが一杯になると、それを袋に入れて持って帰るんです。


マツモは採って来ても、根っこを取らないとワガンネ(いけない)。根っこをとったのを干すのに、四角な「ます」(写真下)がある。そこに入れる。これを型で打(ぶ)つ、というんです。打(ぶ)つ夜には、一晩中、時間が4時間くらい、朝の2時3時まで掛かるんで、眠られねえんだ。

マツモ
松の新芽に似ているところからこの名前がついたそうです。毎年2月、3月の大潮のとき、2回だけ開口となり、マツモを採ることができるそう。

マツモの加工
枡のような方で打って乾燥させます。干すのには、天候にもよりますが最低で2日かかり、大変手間のかかる作業です。
出典:みさご丸さんのブログ

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お袋は厳しかったんだがら。7人の子どもを、33歳の若さで育てたから、やはり厳しい育て方したねぇ。頭は叩(はだ)かれなかったけれど、説教(はなし)が厳しがったね。
お袋は70歳まで薬も飲んだことないくらい元気だったけど、血圧が高くなって亡くなったんです。急に血圧が240に上がったんです。
一番先に「めまいがする〜、障子の組ッコ(格子)が回る〜」と言ってたんです。10年後に再発して、病院にも入院したけど、先生に呼ばれて、「申し訳ないけど、これ以上は良くならないから、家に帰って休ませてください」と言われて、家に連れて帰ってそのまんま。亡くなる直前まで何にも苦しまないでね。

生まれ年と戦争体験

私は昭和2(1927)年生まれで、大正15(1926)の人と学年は同じだ。その年に大正っていう年号が無くなったべっちゃ。そん時ね、昭和元年と2年と、1週間で年号が2年になったんだ(大正15(1926)年12月25日大正天皇が崩御、昭和に改元され、さらにその1週間後に年が明けました)。
だから、私たち同級生が3組いるの。どういうことかというと、戦争には、同級生なのに、大正15(1926)年生まれの人、その次は昭和元(1926)年生まれの人の順に早く行ったの。昭和2(1927)年生まれの私が兵隊に行かないで、戦争は終わったの。

私は予備士官学校を志していました。高射砲(こうしゃほう)を志望してたの。「飛行機を撃ち落とすべぇ」って、それを勉強したの。歩兵でなく、高射砲(写真)だ。
陸軍歩兵みたいな方法(かっこう)でなく、高射砲だがら、撃(ぶ)つことだけ練習。だけっども、歩(ある)くんでなく、1箇所(ひととごろ)でやるから一番狙われやすいし、すぐ見(め)っけられるんだ。終戦前、昭和19(1944)年あだりから、20(1945)年8月の終戦まで、高射砲の勉強ができたのも一時(いっとき)のことだったね。

終戦になってしまったから、戦艦に乗る志願はしてたけど、軍服もらっただけで帰(けえ)って来たよ。そのとき私は18歳でした。
あの時、教員採用の募集があって、自分は先生になったからやめたの。陸軍少尉だったか中尉だったか、女川の部隊長でいた人のことを思い出すんだが何て言ったべなぁ、あの部隊の名前は忘(わせー)ですまったなぁ。戦争が終わって、60年にもなるものねぇ。

戦後の農家の厳しさを体験する

戦争が終わってからは、家に帰って農業をしました。
周りはみんな農家で、いっぱい畑があって、人手がない。昼間も働いて、月夜の時は月の明かりで働いたんだ。月の明かりだけでやったの。私だけでなく、みんながそうでした。
それに、今こそ、機械でやるけっども、昔は耕運機なんてながったから、手だけで作業したの。
この辺は火山灰みたいなとこでないから、柔(やわ)い土やサラサラの土でなくて、粘土ども違って、固いし砂利だし、崩れやすいような土ではないんです。機械なら1時間や2時間すれば終わるのを、幾らも耕せないわけ。だから、ほんとうに重労働だからね。

石浜神楽のはじまり

戦争に負げたからね、暴力団なんかが、横暴(デタラメ)になってきたべっちゃ。ほんではワガンネ(いけない)ということで、私たちは、こういう時こそ神様への信仰でひとつになることが大事だと思って、私は先頭になって、南部神楽を始めたんです。終戦後、私が20〜22歳ぐらいのときです。そのあたりに南部神楽が始まったの。私は青年団長でしたから、若い人たちに教育みたいなことをしたんです。つまり、自分が教えられたことを伝えたんだね。

私たちのお神楽は、本吉の法印(ほういん。旧修験系の宗教者のこと)神楽とは違うの。うちは南部神楽だから。岩手県が本場。山伏神楽とも言うんだ。
神楽って言っても種類がたくさんあるんですよ。楽器は、10センチくらいの鐘を叩(はた)く人と太鼓(写真)とがあって、大胴太鼓は細いバチを使って横から叩くんだ。着物と面コがあって、そういうのを身に着けて踊るの。笛は鳴らさねぇ。南部神楽は笛使わねぇから。

南部神楽の典型。大胴太鼓が真ん中に見える

南部神楽の典型。大胴太鼓が真ん中に見える

こないだの津波でも、面からなにがら、道具は流されなかったから、今も全部あるし、今でも頼まれればできます。私が入院して太鼓の演奏会に出られなかったときも、おばあさんが衣装の管理や洗濯をしてくれたんだね。

私は小せえ時は神楽が好きで、ドラム缶やバケツを鳴り物にしてやったんだもん。戦後の何も無い頃だから。若い人たちにはね、お面はね、ほおの木、かぶきの葉で、大きな葉っぱに穴ッコを開けて、口に噛むようにしてやらせたの。

神楽は33番あるんだ。「岩戸(いわと)開き」が始まり。「岩戸開き」(天岩戸伝説が元になっている)というのは、あんたたちも習ったでしょう。
天照大神(あまてらすおおみかみ)がね、天(あま)の岩戸さ隠れて、この世が暗くなった。ほんで、「とってもワガンネ(困る)」となって、娘たちが、岩戸の前で踊ったの。そしたっけ、岩戸の中までその音は聞こえた。天照大神がそんどぎ少しだけ、岩戸を開けた。世の中が少し明るくなったんだと。
その時と思って、力持ちの手力男尊(たぢからおのみこと)が、ガラガラと岩戸を開けた。そしたら、この世がまた明るくなった。そして、娘たちが踊っているうちに、この世が明るくなったという話を、翁(おきな:老人)が出て来て語って聞かせて、「この世で何も起こらないようにすべ(しよう)」とおしめ(注連縄(しめなわ))を作った。
今でもお正月に注連縄作るのはね、悪魔を祓うためです。注連縄をどこの家でも、お正月に飾っぺっちゃ。そういう謂れ(いわれ)を神楽でやるわけです。それが「天岩戸開き」。

天照大神は女(おなご)の神様だからね、だがら女っつうのは強いんだねぇ。長生きすんだ、男より。家でも女が強いから、天照大神だ、ははは。だがら、お金もなんでも女に預けるのが本当さ。「はいはい」ってなるべく、お金を男の方より女の方に持たせれば、身上(しんしょう)が持てるって。男でだめなんだ、使ってしまうから。お金は女(おなご)が持ってたほうがいいんだって。

そのほか「壇ノ浦(だんのうら)」とかもやるんだ。「屋島(やしま)合戦」(源平の戦いの話)なんかはすさまじいんだ。屋島神社ってあるんだ、そこに。水戸黄門のおじさんって人が壇ノ浦の屋島神社を作ったって、見に行ったこともあるんだ。大したもんだ。

こういう神楽のときに歌うのも、話をするのも私1人なんだ。踊る人たちが言うには、1人でないと調子が合わないそうです。話しながら太鼓を叩くんで、息を合わせないといけない。話すと手が動かなくなってしまう、だから難しいんだ。踊るのはまずもって、3人くらいだけど、5人で踊るときもある。神楽33番、一幕、ひとつの演題を全部やるとだいたい、2時間〜4時間掛かんでねえか。

私は踊りが好きなんだ(奥さま曰く、「好きなの、この人は。歌って良し、踊って良し。ヤクザでも、マドロスでもなんでもいいんだ。好きでなければだめ(笑)」)。今は年取ったからあれだけど。

神楽を披露しに、仙台の東北博覧会にも行ったことがあるし、藤崎(百貨店)にも、歌津会(各地にいる歌津出身の人の会)の人たちを呼んでやったんだ。その時は、唐桑(気仙沼市)の「七福神踊り」(小鯖神止まり七福神舞)の人たちも一緒でした。そういえば、博覧会では、ステージの前で見ていた外国の人たちが、「殺陣」を見て逃げ出したこともあったね(笑)。文化の日なんかに、学生に神楽を教えたこともあります。

石浜神楽
昭和48(1973)年9月11日南三陸町民族無形文化財に指定された石浜神楽は、宮城県の南三陸町歌津にある石浜地区で伝承されている神楽です。
終戦の混乱真っ只中にあった昭和21(1946)年、世の天下泰平を祈って、石浜地区の当時の青年達により登米の鴇波(ときなみ)神楽から師匠を招き、指導を受けて伝授されたのが石浜神楽の始まりとされています。石浜地区にある飯綱神社の祭典日に奉納されるほか、各地の神社の祭礼にも招かれて、その舞が奉納されています。
飯綱神社の入り口には、捕鯨船に乗っていた人から寄進された、長さ5.3mにもなるシロナガスクジラの顎骨(写真)があり、そのためか豊漁祈願でも人々が訪れます。
同神社で奉納される際には、そうした経緯からか舞台に大漁旗がはためき、そんな中で鮮やかな紋様の入った古代装束を纏って仮面をつけて舞う様は、浜の神楽の気性を今に伝えています。
その歴史は比較的新しいものではありますが、発願から60有余年、祈りは今も変わることなく脈々と神楽の中に受け継がれています。
出典:南三陸バーチャルミュージアム

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青年団活動に打ち込む

この地域は大きく分けて、南部、中部、北部とあったんです。歌津、志津川、小泉が中部、大谷から気仙沼まで北部。地域には昔から決まった青年団があったから、クラブもあったけどもそっちには入らないで、青年団に入りました。歌津町青年団です。青年団というのは、たくさんやる仕事があって、一生懸命やりました。

主に体育関係だね。毎年9月あたりに、青年団で仙台まで行って、体育大会をするんです。私はリレーに出ていたのですが、青年団に入る前、学校にいたときから1番走者でした。スタートは大変だからね。1番走者ばかりやらされました。
自分たちが練習していたグラウンドが狭かったの。校庭が1周200mしかなかったんです。だから、コーナーがすぐに回ってくる。だけど、仙台の競技場は1周400m。200mのコースばかりでやってきたから、どこでハネて(一生懸命やって)いいかわかんなくて、勝手が違って、呼吸(ペース配分)が分からなかったから、やっぱり負けてしまった。直線コースだけは一生懸命やっていたんですが先頭になった人は追い越せないんですね。

あとは、算盤(そろばん)をしたり。
私は若い人に算盤も教えました。免許は何級も持たねえけども、読み上げ算、掛け算、割り算、暗証でね2桁までやった。中央でそろばんの競技会があって、集まってみんなでやったんです。競技会に出ると、先生に「お前なぁ、そろばんが上手いから、上海(しゃんはい)銀行さ行け」って言われたこともある。だげっともお袋1人残して上海に行かれねぇから、行かないでしまったのさ。

結婚

私が結婚したのは30歳になってから。「何時(いつ)までなにしてんだ、お前。その年になるまで何してる」と叱られる、そういう時代でした。でも、私は家取る人(家督、後継ぎ)でなかったけれど、私の兄貴たちが戦争で留守にしている間、お袋を助けて、家を守っていましたし、長く青年団長もしたので遅くなったのです。私(おらい)のばんつぁん(奥さま)が20歳のときに結婚したんです。見合いはなし。仲人がついたから。学校の先生だった人にお世話されたんです。仕事してる畑まで毎日1週間通って来たんで、仕事の邪魔になるってお袋も私も怒ってました(笑)。

(ここで、近くで朗々と船乗りのおじいさんの歌が始まったらしく、聞こえてくる。手拍子も起き、素晴らしい)
あの人は船さ乗ってっから、海でやるんでねぇの?
子どもの年は、上から52歳、2番目が49歳、2番目の息子は、大和(宮城県大和町(たいわちょう))の学校出て、仙台で測量設計の事務所開いて、仕事してっから。その次は娘で46歳。飲食店をやっていて、東京にもいたことがありますが、今は福島さ帰ってきてやるようになったの。みんな3つ違い。産まれた子が大きくなってから次の子が産まれたから、上手な産み方をしたんだねぇ。3年に1回子どもが産まれる、ということは、子どもが全員授かるまで9年掛かったわけだ。
早くに結婚したから、ばんつぁん(奥さま)は、割合と早く、40代で孫ができたんだ。内孫は3人。ひとりは、男で、仙台に希望した学校ながったんで、横浜の大学に行ったんだ。今2年生だげっとも、他に、高校終わったのが1人、女の孫がバッチ(末っ子)が中学3年生。

古い時代の津波について

この歌津にはね、天保年間(1830〜1843)の津波も来てたの。大きな津波だったから、私たちが住んでいた海岸には、その天保年間の津波の石碑があるの。田束山(たつがねさん)には「波かけ」という名前の場所があります。ここまで波が来たことを示すんだね。
<解説>1835年7月20日(天保6年6月25日)14時頃、北緯38.5度、東経142.5度付近を震源とするM7.0前後の地震が発生し、死者は多数、仙台城が損壊し、津波も起きたという記録があります。

明治29(1896)年の津波(明治三陸津波)のことは、親から直に教えられたの。
その津波ではね、私(おらい)のお爺さんが1人生き残ったの。それはなして(どうして)かというとね、そのお爺さんは、夜のうちに沈めておいた網(「流し」漁という)を、魚がかかるころに櫓をこいで船で捕りにいったの。昔はイワシでもなんでも夜のうちに網を流して置いたの。となりのお爺さんと2人で行ったんだって。
魚を獲って、今度は家の方へ漕いで帰ってきたら、とっても良い物ばかりが流れて来たんで、最初は珍しいから、それを船にみんな積んだんだって。だんだんに漕いで帰って行くと、渚あたりで人の泣く声が聞こえた。「ああ、こりゃ津波が来たんだ!」となって、拾ってきた物を船がら全部投げ捨てて、その人を乗せたんだって。みんな津波で死んでしまって、「流し」に行ったお爺さん、隣のお爺さん1人、うちでも1人生き残ったと、お袋から教えられたの。津波のとき、沖は津波が来たのが分からなかったっていうんだから。
明治三陸津波ではたくさんの人が亡くなったんだねぇ。葬るのに、火葬になったのは最近だから、墓を掘るのにあんまり沢山の人が亡くなったんで、避(よ)け避(よ)け掘ったんでねぇかなあ。
私たちの先祖つうのは侍だという伝説があります。負け戦だか何かで、へんぴな所に逃げできたんでねえの。その侍の鎧も兜も、槍も全部、明治の津波で流されたの。

前触れ無き大津波・明治三陸津波
明治29(1896)年6月15日、三陸地方の村の人々は端午の節句の日を穏やかに過ごしていました。午後7時32 分頃、人々は緩やかな地震の揺れを感じました。現在の震度にして2〜3 と思われる小さなものであったようですが、人々はさして気に留めませんでした。
ところが、この約30分後に巨大な津波が不意に押し寄せ、2万2000人にのぼる死者を生んだ津波災害となりました。
一般的に、海底で地震が発生した場合には、その規模(マグニチュード)が6.5 よりも大きくなると津波が発生する可能性が高くなります。マグニチュード6.5 以上の地震が発生すると、その発生した付近の海岸では強い揺れに見舞われますから、「海辺で強い揺れを感じたらすぐ高台に避難」というのが津波から身を守るための基本的なルールです。しかし明治三陸地震津波には、強い地震の揺れという前兆がありませんでした。
津波の地震の規模の割に非常に大きな津波を引き起こす地震を「津波地震」と呼びますが、明治三陸地震津波はこの「津波地震」により引き起こされた津波でした。津波は、岩手県では標高38mまで駆け上がり、驚くべきことにハワイでも9mほどの津波が来襲していました。明治三陸地震津波は、津波そのものの大きさもさることながら、津波の警鐘となるはずの地震動が小さかったために、前触れなき大津波として語り継がれています。
中央防災会議「災害史に学ぶ」より

昭和8(1933)年3月3日、地震の日はまだ寒くて、雪が降っていたの。津波の上がったところだけは黒くなって、上がんないところは白い雪が残ってね。

津波が来たときは、私はまだ小学校に上がる前で、夜、お爺さんと一緒に寝てたけっども、お爺さんが私をおぶって逃げてたんだね。お爺さんは60歳ぐらいだったね。

家は流されねえの。下まで波が来たけど、流れねえの。だけっど、お爺さんが海岸で店ッコやってたの。雑貨屋。津波の前の日には、新しい店ッコの「建前(タテメエ)(新築の際に行われる神道の祭祀、いわゆる「上棟式」のこと。詳しくは後述)」までしたが、津波に流されてしまった。

建前とゴシモチ
この辺りで棟上げ(建前)といえば「餅まき」が行われるのが習わし。「ごし餅まき」とも呼ばれる。
山から切り出した木で家を建てると「山の神さま」がついてくるから、神さまが好物の餅を家の外に撒いてお帰りいただく。
建前の日は、棟の上に5色の旗を立て、矢車といって矢を大きく描いた板を交差させる。家人が病気や火災などにならないことを願うおまじない
5色の旗は、東に青、西に白、南に赤、北に黒、真ん中に黄色と決まっている。
ゴシモチ撒きには大人も子供もたちが我先にと拾う。拾う事は縁起が良いのである。

ゴシモチを撒く

ゴシモチを撒く

矢車を立てる

矢車を立てる

明治の津波で家が流されて、みんな家を高いところに建てていましたが、昭和に入りまた下に降ろしたんだね。それがこの昭和三陸津波で流されてしまった。
(このお話の時、周りでは「大漁節」の大合唱が起きていて、みなさんの楽しそうな声とともに、とてもよい雰囲気になっていました)
この津波の後、みんなが来て、津波の観測をするようになった。
私の所は津波の石碑だらけですよ。

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3月11日のこと

3月11日の地震の日は、その前に3カ月ほど、血小板が足りなくて高熱がでたり震えがきたりする症状で、入院していました。その時から足が不自由になってしまったの。痛いから注射したりしてね。
地震が起きたのは退院してから1カ月も経たないあたりだったね。茶の間にいたところで地震が来た。家の瓦がガラガラって音立てて落ちてきて、たまげた(驚いた)でば。外に出られなくなった。

家は本格的な母屋づくりで、阿部井組という腕のいい大工に頼んで、44年前に建てた、良い材料で建てた家だったんです。普通、瓦は7〜9段で作るけっども、化粧瓦を12段で作ってたんです。赤瓦で、みんなが真似たんだ。柱には松やひのきなど自分の山の木も使っていて、あんまりたくさん材木を集めてたんで、材木屋と間違われたりしました。どこも手を入れる必要もなくて、しっかりとした造りの家だった。家の中には中廊下があり、どこの部屋も通らずに行き来ができました。ずっと綺麗なままで、伝統的なつくりの家をわざわざ見に来る人もいたんだね。そこを4年前に、トイレやお風呂などの水回りや襖などにお金をかけて、バリアフリーに直したばかりだったんです。

ばんつぁん(奥さま)は兄の家に手伝いに行っていて、帰って家を見たとき、潰れてしまったと思ったって。
津波の来る少し前から雪が降ってきました。ドーンという鳴り物が2回起こり、20分ぐらいして津波が来たんです。知り合いの若いお姉さん2人が足の悪い私を迎えに来て、家から高いよその畑まで連れて行ってくれた。

この津波で、石浜神楽の踊りでずっとお姫様(娘役)をしていた人は、隣のお爺さんだったの。ところが、今回の津波で流されて亡くなったの。お姫様っていうのはユルくねぇ(簡単じゃない)からね。ちゃんと稽古するからね。振袖を着て女役をやるんで、普段も股を開かず歩く人でした。

私の生きかた、これからのこと

今まで、農業をしながら、青年団長やPTA会長、44歳あたりから石浜の契約会の会長にもなった。防波堤を整備したり、道路を作ったりしたんだ社会教育委員も務めので、教育委員会から感謝状ももらったもん。なんでもみんなより長くやって尽くしたからね。
いつもみんなまるく納まるようにしてきましたね。このあたりの同年輩の人はみんな知ってるくらい。好きでそういうことをしてきたんです。
自分が勉強してきて分かっていることで、みんな教えられるものを、後から入ってきた人たちに教えてきたし、もらって働いてきたお金も、「年が上だから」とか「私が世話したから」って多く貰ったりせず、みんな平等に分けて、周りの人たちとは本当の友だち付き合いでやってきました。

これからですか。私たちの希望は、元の場所に家は建てられないけっども、石浜の避難所の近くに畑があるから、その場所に子どもたちが泊まれる家を建てたいねえ。小さくてもいいから。(談)

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奥様の文子さんも加わって楽しく伺いました

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聞き書きチーム。左から河本真吾、文子さん、刈田唯可、良美さん、四之宮牧子

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左から牧野昇、文子さん、刈田唯可、良美さん、四之宮牧子

この本は、2011年8月30日、2011年11月20日の両日、
佐藤良美さん、文子さんご夫妻に歌津の平成の森仮設住宅にて
お話いただいた内容を忠実にまとめたものです。

[取材・写真]
河本真吾
牧野昇
四之宮牧子
刈田唯可
(以上2011年8月30日)

八木和美
大井田和恵
(以上2011年11月20日)

[年表]
河相ともみ
織笠英二

[方言聞き取り]
織笠英二

[文・編集]
久村美穂

[発行日]
2012年5月19日

[発行所]
RQ聞き書きプロジェクト

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Information

投稿日:2013.08.26
カテゴリー:自分史.

3.11被災 4世代同居 8月15日 45号線 1945年7月21日 GHQ JA南三陸 RQ市民災害救援センター SCSミュージカル研究所 あんこ餅 いたこ分け いなご うるし柿道路 おかず おせち料理 おだずもっこ おにぎり おひたし おままごと おやつ お囃子 お寺 お恵比寿さん お盆 お礼奉公 お祭り お茶 お茶っこ お菓子 お蚕 お見合い お金取り かき餅 かくれんぼ かけす かっこ船 かて かてご飯 かてめし かばねやみ かまぼ きな粉 きな粉もち きび きりこ きんとん くわご ごし餅まき ご飯 ご飯組 ささよ さんさん館 しゃれこうべ じゃがいも すかんぽ すみもち そぞめの木 そり だるまさんがころんだ つくしの里 つけ払い つつじ苑 つぶし麦 てなもんや三度傘 ところてん なり物 はっと はまなす はまなすの丘 ひつこ ひまわりおじさん ひまわり温泉 ふくべん ふなだま ふるさと会 ふんどし部隊 ほんにょ めちゃ(結膜炎) もらい湯 もらい風呂 よつこ よもぎ わらじ アイスキャンディー アイスホッケー アイナメ アカハタ アケビ アケボノ アサリ アミタケ アヤメ アワビ アワビの開口 アワビ御殿 アワビ漁 アングロ・ノルマン アンコ イカ イカ釣り イタドリ イチゴ イッポンシメジ イワシ イワシ漁 ウォンビツ ウグイ ウサギ ウサギ追い ウタちゃん ウナギ ウニ ウニ丼 ウニ漁 ウラベニホテイシメジ ウリ ウンクサ エドモンド・ナウマン博士 エビ餅 オキナソウ オート三輪 カカシ カキ カクヤマ カゴ カジカ カジメ カゼ カツオ カツオ漁 カツオ漁船 カツオ船 カナダ カルチベーター カレーライス ガキ大将 ガソリン ガバ キジ キツネ キノコ キノコ採り キノコ栽培 キハダマグロ キャンプ キュウリ クジラ クツワ クヌギ クリ クリスタみやぎ クリスマス雪害 クルミ餅 クロ塗り グミ グランドゴルフ グランドゴルフ協会 グーグル ケッタ ケンケン ゲンジボタル コウ コウカの実 コマ ゴシモチ ゴムはじき サイダー サケ サケの卵の塩漬け サケマス漁 サケ漁 サケ漁の祈祷 サッカー サッパ船 サツマイモ サツマイモの茎 サトウキビ サメ サンマ サンマの油 サンマ御殿 サンマ漁 サンマ船 サン・ファン・バウテスタ号 ザッパ船 シイタケ 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指物大工 振興会 振興無尽会社 振興相互銀行 振袖 挺身隊 捕虜 捕鯨船 揚縄 支倉常長 支援物資 支那事変 放射能 救援物資 敗戦 教員 教科書 教育勅語 文化財 斗組 料理 新井田館跡 新井田館跡発掘作業 新制中学校 新田次郎 日中戦争 日掛け金 日本よい国、東の空に 日本人学校 日本武道館元館長 日本語講座 日本陸軍 日本青年団連絡協議会 日給 日銭 日門 日露戦争 旧仙台藩 早生八幡 昆布 昆布の開口 明治29年三陸津波 春の大祭 昭和8年三陸津波 暖飯器 暴れ神輿 曲尺 月俸 月夜 月給 望小山 朝塩釜神社 朝日館 木の実 木価 木地蔵 木挽き 木材 木炭 木炭組合 木馬 末期の水 本吉 本吉地区冷害基金 本吉町 本吉町国際交流協会 本吉町連絡協議会 本吉響高校 本吉響高等学校 材木 村葬 条桑育 東京・四谷区 東京人絹 東京第一陸軍造兵廠仙台製造所 東北の長崎 東北博覧会 東北大学災害科学国際研究所 東北大学災害科学研究所 東北最大のフリーマーケット 東北本線 東北歴史資料館 東和林業組合 東和町 東和鱒渕 東日本鉄道文化財団 東稜高校 松原 松原そうじ 松圃 松島 松林 松根油 松笠 松茸 林業 柳州 栄養失調 栗原郡 桂林 桃山時代 桃生 桑の実 桑畑 梅ッコ 梅干 梅干し 梶賀千鶴子 棒受け網 森口多里 森林組合 検閲 樋の口大家 横座(上座) 横須賀 横須賀海軍 横須賀海軍カレー 機関員 機関士 檀家 歌津 歌津・志津川合併 歌津中学校 歌津会 歌津十二人衆 歌津寄木ささよ整備事業 歌津敵討 歌津村葬 歌津町 歌津町史 歌津町小学生ミュージカル 歌津町議会 歌津町長 歌津町青年団 歌津駅 歌津魚竜化石 歌生 正月 正月料理 正月飾り 歩兵第四連隊 死に装束 死人もの 母屋づくり 氏子 氏子総代 氏神 民族歌舞団ほうねん座 民話 気仙パン 気仙大工 気仙沼 気仙沼ジャスコ 気仙沼市 気仙沼市教育委員会 気仙沼市立病院 気仙沼湾 気仙沼線 気仙沼西高校 気仙沼高等学校 水夫 水害 水戸辺川 水戸辺川上流 水戸辺川上流津波最終到達点 水産業 水産特区 水産高校 水産高校実習船 水田 水眼 水遁の術 水道 決死隊 沢庵 河童 沼エビ 沼深 沿岸漁業 泊崎荘 泊浜 法印神楽 波来の碑 泣く子も黙る原兵団 注連縄 津山杉 津波 津波をかぶった杉 津波伝承 津谷中学校 津谷川 津谷高校 浄瑠璃 浅縄 浜の神楽 浜・町・在 浜松の織物工場 浦賀 海上保安庁 海南島 海員学校 海水浴場 海洋実習 海洋観測 海苔 海苔漁 海苔簀 海苔網 海苔養殖 海藻 海鵜 消防団 深縄 清水寺 清水浜 渋柿 温泉 満州 満州の花嫁募集 満洲の温泉 満海山 満蒙開拓団 満鉄 満鉄工務区 源氏 源義家 源義経 源頼光 源頼朝 漁労長 漁協 漁師 漁業 漁業協同組合 漁業権 漁業者 漁民 漁船 演芸会 漬物 潜り漁 潜水器操業 潜水士 潜水漁 瀋陽 瀬峰小学校 火の用心 火まわり 火事 火災 火葬 灰干しワカメ 炭炬燵 炭焼き 炭窯 無尽 焼津 煮もの 煮物 熊ヶ根橋 熊岳城 熊岳城ホテル 熊谷流の踊り 燻製 爆弾 牛殺し沢 牛肉 牡蠣 牡蠣剥き 牡蠣殻処理場 牧之内城 牧野駿 物々交換 特区 狩猟 献膳 献膳係 献膳長 獅子舞 獅子頭 玉の井 玉子柿 玉音放送 理容師法改正 瓦屋 瓦工場 瓦礫 生態系 生活相談員 生涯教育課 生糸 田の字造り 田の浦 田んぼ 田中則和 田束の夜明け 田束山 田植え 田老町 町切 畜産 畜産農家 疎開 疎開工場 登米 登米市 登米郡南方町 登米高女 白山様 白山神社 白無垢 白砂青松 白菜 白装束 白馬童子 百貨店 皿貝化石 皿貝化石群 直売所 相互銀行 真言宗 矢車 石巻 石巻北高校 石巻港 石浜 石浜神楽 砂湯 砂糖 硫黄島 磯漁 社寺建築 祇園神社 祝い事 祝儀 神棚 神楽 神様参り 神社 神社本庁 神輿 神飾り 祭り 祭典 祭典日 福島丸 福島原発 秋の大祭 種はさみ 稲作 稲八幡 稲刈り 稲荷寿司 空襲 空襲警報 立川町 立棺 竹スキー 竹川原 竹槍 竹馬 竹駒神社 第三次補正 第二地方銀行 第二次世界大戦 筍の皮 算盤 管の浜 築館 米作り 米俵 米川 米川の教会 米川小学校 米川村 米川狼河原綱木の沢 米広 米穀通帳 米谷工業高校 米軍 粟餅 精米 納豆 納豆餅 紙のランドセル 素干しワカメ 素戔鳴尊 素潜り 紡績工場 細浦 細浦生活センター 終戦 終戦の日 終戦後 経塚 経塚遺跡 結いっこ 結する 結婚 結婚式 結納 給食 綏化 総代 総本 総本宮 総本山 編み物 縁起物 縄とび 縄跳び 縫製工場 缶詰工場 缶蹴り 羽織袴 羽黒山 老人会 老人保健施設 老人養護施設 肥料 脱脂粉乳 腸チフス 自動乾燥機 自給自足 自衛隊 興業銀行 舘崎の浜 舞根 舟沢 船名旗 船員 船大工 船子 船川丸 船舶免許 船酔い 船頭 艤装 艦砲射撃 色彩選別機 芯抜き 花火 芸能部 苗代半作 茄子 茱萸(ぐみ) 草もち 草履 草餅 荒島 荷鞍 菊の御紋 華南高校 華足寺 華足寺参道整備事業 華足寺大祭 華足寺大祭のお供え 華足寺大祭の演芸会 華足寺馬頭観音堂 落ち武者 葉タバコ 葛西四百年 葛西家 葫蘆島 葬儀 葬式 蒸気機関車 蕎麦 蕎麦粉 蕨野 薪ストーブ 藁穂沢 藁草履 藤の蔓 藤原征伐 藤原氏 藤原秀衡 虎舞 蛸の渦巻 蝦夷地 蝦夷狩 行商 行政区長 行方不明 衡陽 衣川 衣料切符 被災地 被災後 裁縫 裏杉・表杉 裏目 裏観音様 補充兵 補助金 製材所 製糸工場 製鉄 西戸 西條實 西條實短歌集 要谷 観世流 観音像 角田市 解体ショー 許家屯 誉田別命 語り部さん 請負耕作 豆もち 豆餅 豊前宇佐八幡宮 豊漁祈願 貞任山 買い物 赤崎 赤痢 赤紙 足湯 踏み絵 蹄鉄 軍人勅諭 軍人恩給 軍国の母 軍用犬 軍需工場 軍需物資 輪尺 輸出 農作業 農協 農地解放 農家 農家預金 農林業 農林水産大臣賞 農業 農業共済制度 農業共済組合 農業委員 農業改良試験場 農業災害補償法 農業研修 農民講道館 農閑期 迫川 追い馬 這坂 通り囃子 造兵廠 造幣局 造船 造船所 連絡協議会 進学 進駐軍 遊園地 運送事業 道中囃子 遠の木沢 遠洋漁業 遠藤美希 遺体 避難 避難所 避難生活 避難訓練 郵便局 郷土探検 郷土芸能 郷黒 配給 配給制度 酒井農寮 酒井馨 酒屋 酪農 野戦病院 野球 野菜 野菜研究会 金の卵 金峰寺 金華山 金鉱 金靴屋 釜神様 針葉樹 釣り 鉄嶺 鉄砲 鉄砲風呂 銀鮭 銀鮭養殖 鍋焼き 鍬頭 長の森寺 長沙 長沼 開口 開戦の詔 間伐 関東軍咸陽 防波堤 防潮堤 防災庁舎 防災無線 防犯実動隊 防空壕 阿部井組 陣取り 除草機 陸中海岸 陸前原町駅 階上 隠れキリシタン 雁月 雄飛小学校 集団就職 集団移転 雑煮 電報 電話 震源地 霞ヶ浦 青大将 青年の家 青年の船 青年会 青年体育大会 青年団 青年団長 青年学校 青年文化祭 青年部 青森丸 青空工場 青色申告会 鞍薦 響高校 須賀神社 頼光寺 頼母子講 風呂 食べ物 食事 食糧難 飯土井 飯綱神社 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