東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

東日本大震災 RQ聞き書きプロジェクト 「自分史」公開サイト

自分史

ひた走る花屋
——志津川・中瀬町の花々と星々と
佐藤徳郎さん[宮城県本吉郡南三陸町志津川中瀬町]

まえがき

ここから始まるのは、志津川中瀬町に生きる佐藤徳郎さんの半生を綴った物語です。佐藤さんは農業家として「緑の手を持つ人」であり、区長として「中瀬町を力強くけん引するリーダー」であり、家庭人として「家族思いの父親」でもあります。

穏やかな語り口や、笑うとほんとうに優しいまなざしからは想像できないほど、目標に向かって熱くひた走る佐藤さん。時として厳しく己の信ずるところを貫き通します。でも、孤独に走っていたのではなかったのです。佐藤さんの傍には多くの人々が、笑顔の時も、涙の時も、さながら地上に大輪の美しい菊が咲くように、そして天上に星が瞬くように寄り添っていました。そんな物語を感じていただければ幸せに思います。

多忙な時間を割いて、貴重なお話を聞かせてくださった佐藤さん、そしてご家族のみなさまに、この場を借りて心よりお礼申し上げます。

ここで結ばれた多くの信頼が変わることなく、明日を紡いでいけますように。

RQ聞き書きプロジェクト チーム一同

志津川の自宅で生まれる

私は、昭和26(1951)年7月18日、志津川町竹川原の自宅で、産婆の鈴木さんに取り上げられて生まれました。私の名前は、初代が八次郎(はちじろう)、親父が徳男(とくお)だったので、ただ単純に2人の名前を合わせて徳郎(とくろう)にしたようです。
きょうだいは6人で、私は4番目なんですが、上から女、女、女、男、女、男の順。長女が昭和17(1942)年生まれで、そこから3年ずつ年が離れて、全部3つ違いなんです。

頭の切れる祖母

私のお袋ってね、料理が下手だったんですよ。おばあさんがいろんなものを作ってくれて、自分はおばあさんに育てられたようなもんです。
おばあさんは、ものすごく暗算の得意な人でした。昔はうちが貧乏だったろうし、学校もろくに行ってなかったんだけど、暗算が得意だったんです。
親父が、たとえば土地を買うとか、山を買うとかいう時に、「こういう売り物があるんだけど」って最初に相談するのは、おばあさんだったんです。それから家族に相談するんです。
そうなるとおじいさんは反対するんです。おじいさんは気の小さい人でした。そこで親父が算盤を出す。その時、私たちは「いいから子どもはそっちへ行ってろ」って隣の部屋へ追い出されてしまうので、大人たちだけでやってるのを、ふすまの傍でじっと聞いているんですね。親父は「これをいくらで買って・・云々」と算盤はじいてやっているわけです。親父の算盤だってそんなに遅くないんですよ? それなのにおばあさんは黙って聞いてて、親父が計算終わる前に、「何ぼだ」って言うんです。それが合ってるの。

この間の津波で流された家は、おじいさんおばあさんが結構苦労して、初めて自分の土地に建てたもの。親父の家でした。昭和16(1941)年にその家が建つまでは借家暮らしでした。それから、そこに70年ほどずっと住み続けて、3回ぐらい改築したんです。

中瀬町の中心は志津川の駅のあたりなんです。中瀬、竹川原、廻館、塩入地番の4つで一つの中瀬町という行政区を作ってきました。住所と集落の名前は一致はしないんです。こういう例はこの辺りでも少ない。林、大久保、とか地番が部落の名前になっているのがほとんどです。中瀬町は含まれる範囲が広いんですね。私らが子どものころは30世帯ぐらいしかなく、廻館には5~6軒、それ含めて40世帯ぐらいしかなかったの。その内の8割は農家でした。流される前は197世帯ありました。


農家、酪農家を兼業

うちでは、葉タバコ、米、野菜を作っていました。いろんな野菜を作っていました。大根、白菜は当然のこと、ニンジンも作ってましたね。
今のように野菜を市場に出荷し始めたのは昭和52(1977)年からのことで、その前はすべてお袋がリヤカーで売り歩いていたんです。だから毎日現金収入がありました。1日売れば少ないときでも5~6千円入ってきました。そのお金は日々の生活に使いました。タバコと米は年に1回の清算でした。

そのほか酪農をしていました。酪農は親父と長女と2人で牛を4~5頭飼っていたんです。昔の乳価は高くて、月1回の清算で、そのお金で物置を立てたり土地を買ったりしていました。
昔は野菜と酪農を同時に営む人は多かったんです。養蚕やってた人もいました。しかし、中瀬町では海で生計を立てている人はいませんでしたね。

米は作って売るためのものでした。いいお米は売って、家では、普段はふるいにかけられた後の屑の米を食べるんです。10人家族で米の量も半端でないわけさ。お正月とか、祝い事のときだけはいい米を食べました。麦は、(売る為のもので)少ししか作っていませんでした。

おかずは味噌汁と野菜の漬物、そして魚。魚は川も海もあるから、たくさん食べましたよ。お袋が野菜を売って、その帰りに何か買ってきたもんです。

子ども時代の思い出

テレビは部落に2~3台という時代です。親戚の家にテレビを週に1回か2回見に行って、覚えているのは、藤田まこと、白木みのるの出ていた「てなもんや三度傘」、山城新伍の出ていた「白馬童子」とかでしたね。自分の家でテレビを買ったのは、昭和39(1964)年の東京オリンピックのあった年、小学校6年の時でした。1月の売り出しで買ったんです。

お袋は次の日の(野菜売りの)準備をやって時代劇を見ていたな。子どもたちも引きずられて一緒に見てました。
当時は「巨人、大鵬、卵焼き」といわれた時代で、野球は巨人、相撲は大鵬、おかずのいいのは卵焼きってね。
学校での遊びは小学校4年生ぐらいまでは相撲しかありませんでした。当時は柏鳳(はくほう)時代で大鵬(たいほう)、柏戸(かしわど)など自分の好きな人の名前を勝手に名乗ったんです。私は大関の北葉山。うっちゃりが得意な力士でね(笑)。幼馴染の佐藤仁町長は初代豊山だったんですよ。昔の話をすると、今でもその話が出てきますね。
学校の先生も「怪我すると危ないから」って砂場を作ってくれ、家から藁を持ってきて土俵を作って、そこで相撲を取りました。

野球だってグローブもバットもない時代です。お金持ちの家にはありましたよ。
スケートだって下駄スケートです。下駄の歯をとって鎹(かすがい)をやすりで研いて、それを下駄に打ちつけて下駄を履いてスケートしたんです。同級生で靴のスケートを持っている人は2~3人しかいず、金持ちしか買えない時代だったんです。スケート場は田んぼ。昔は寒くって30センチぐらいの厚さの氷が張ったんです。12月から2月ぐらいまではスケートできました。アイスホッケーもやりましたね。

後は竹スキーです。スキーなんて売っていないから、自分で作ったんです。ほかの家の竹やぶで竹伐って、竹の節に長靴を合わせて割って、後ろのほうに裂け目を入れて、雪に刺さんないように前をちょっと上げて。それだけでは飽き足らなくて、竹を長い状態で自分の背丈に合わせて竹を切って節を落として、そこだけくりぬいて長靴が入るように工夫したんです。開くよりも丸い分、スピードが出ました。中学校辺りは丸い竹スキー。わざわざ斜面があるとこに行くわけ。アイスバーンだからすごく滑って、怒られましたよ。

子どものころはカレーが好きでしたよ。カレー粉溶いて作るヤツですよ。肉なんてないから、魚肉ソーセージを入れてました。今は寿司が好きだけど。初めて寿司を食ったのは16か17歳ぐらいでした。そのころ、志津川に1軒あったんです。学校給食が始まったのはチリ地震津波以降で、私が小学校3年の時でした。

宮城農学寮へ

志津川小学校から、志津川中、宮城農学寮(農業の専門学校)へと進学しましたが、農学寮は全寮制の2年制、1学年120名の学校でした。農学寮時代は軍隊上がりの寮長がいて、1年目はもう、スパルタですよ。来年上級生になったら下級生をしごいてやろうと思ってたら、その寮長が1年の終わりにいなくなってしまったので、「あれっ」って(笑)。
当時は、親父ぐらいの年代の人が校風に憧れて子どもを入れたんです。当時は人気があって倍率も高かったんですが、農業が様変わりして、入る人が少なくなってきて閉校になりました。その跡地に広瀬高校が建ったんです。

農学寮では1年目は果樹から何から(農業に関する実技を全部)やったんです。2年目は専攻に分かれるので、私はそこで園芸を専攻しました。

宮城農学寮
宮城農学寮は宮城県農業大学校の前身で、昭和10(1935)年に農業の実習教育のための全寮制教育機関として設けられ、昭和52(1977)年の移転まで仙台市青葉区落合にあった。後に宮城県宮城広瀬高等学校や宮城県立こども病院が建てられた場所である。国道457号から宮城県宮城広瀬高等学校に向かう市道にかかる仙山線の踏切名が「農学寮前踏切」でその名残がある。

宮城農学寮。多くの農業家を育てた学び舎。

宮城農学寮「藁ぶき」。これは“スパルタ時代”のもの。

宮城農学寮「乾布摩擦」。凍るような朝もこれから始まる。

酒井寮長。「作物を作らんとする者は、根を作れ。根を作らんとする者は、土を作れ」

栃木での研修を経て

私自身は、昭和48(1973)年から農業を始めました。宮城農学寮を出た後に、栃木の野木町(栃木県都賀郡野木町)の折原さんという方の所で2年間研修させてもらいました。
キュウリの勉強をしに行ったんですが、そこはトマト専業だったんですね。最後少しだけキュウリを作らせてもらいました。折原さんは頭の切れる人で、4H(フォーエイチ)クラブの全国の会長をやった人だったの。4Hクラブというのは農家をやっている人の青年団みたいな組織です。松下電器の創設者松下幸之助に会わせてもらったことがありますが、折原さんが全国の会長だった時に、「家電製品を売るなら農家だ」と言うことで松下さんが4Hクラブに寄付をしてくれた、その時からの付き合いだったらしいです。農学寮というのは全県にあったんですが、折原さんは栃木の農学寮でもたまに講師を頼まれていましたね。

4Hクラブ
4Hとは、Head(頭)、Heart(心)、Hands(手)、Health(健康)の4つの頭文字で、四つ葉のクローバーをシンボルとするよりよい農村、農業を創るために活動している組織。GHQの指導で、農業の再建と農村の民主化をめざして導入された。アメリカ合衆国農務省の管轄下にあり、日本では「青少年クラブ」と名付けているところも多い。

結婚は昭和51年でした。女房が21歳、私が23歳のときのことです。子どもは3人生まれました。

栽培農家への第一歩を踏み出す

昭和52(1977)年ごろからホウレンソウは市場に出荷していました。当時夏場にホウレンソウを出荷する人はいなかったんです。ホウレンソウはもともと冬の作物ですから。作物には、長日性作物と短日性作物との2つがあって、長日性は日が長くなって花咲くもの、単日性は日が短くなって花芽が付くものです。ホウレンソウは典型的な長日性なので、夏、種をまいて17、18cmぐらいになった時に花芽を取り去って市場に持って行ってみたら、市場で受付のやり方を聞いている間にそれが売れてしまったんです。なんと(250g1束あたり)400円の高値で売れたんです。当時の400円ですよ。それは当時、「先取り」と言って欲しい人が先に持って行ってしまう方法でした。そんな時代もありました。

それから野菜研究会という組織を立ち上げて、最終的には100人以上の組織になりました。後に農協内にホウレンソウ部会を作って会長をやって、夏場のホウレンソウ出荷を定着させるよう努力してきたんです。
本格的に野菜を市場に出荷し始めたのは昭和55(1980)年、大冷害の年でした。米の収入はゼロでしたが、国からの補償金で何とかなりました。しかし、それをきっかけにもう田んぼは儲からない、ということで、ハウス栽培に切り替えたんです。息子も生まれた時だし、百姓を継ぐ気持ちもあったから、借金をして昭和56(1981)年に750坪の土地にビニールハウスを建てました。そこは道路よりも1m以上低い土地だったので180万円かけて埋め立てて、その上にハウスを建てたんです。その時女房には話さずにやったので、今でも「相談してくれなかった」って女房に言われますね。

菊の栽培に本格的に乗り出す

菊を作り始めたのは平成元年(1989)年からです。私より6歳下の及川隆君(JAの元組合長。志津川農協に大学卒業後に就職、花の栽培研修で訪欧後、その成果は「JA南三陸」の主力商品「黄金郷」のブランド菊として開花した)に「菊儲かっから一緒に作んない?」って言われたのがきっかけです。彼は頭の回転も速く、きっちりと物事を考える人で、農協の組合長をやって、42歳の若さで亡くなるまで、私とは兄弟のように接していました。

本格的に菊一本にしたのは平成3~4(1991~2)年のことです。それまではトマトと掛け持ちで栽培していました。菊専用にしてからまだ15~6年しかたってないんです。ホウレンソウは一時やめたこともありますが、菊の単価が下がってきたので、また作るようになりました。
ビニールハウスは3か所あって、12百坪の広さがありました。平成13(2001)年に息子が短大を卒業して農家をやるって言って建てたハウスでした。
これが10年足らずで、あの津波によって、2千万の土地がパーですからね。家を流されてもいいですが、仕事場を失うというのは辛い。確かに生まれ育った家だから未練がないと言えばうそになるけど、建て替える気持ちを持っていたので、勿体なさは無い。しかし昭和47(1972)年からコツコツと投資してきた40年間のハウスの蓄積ってやっぱり大きいんですよ。試行錯誤してやってきたから。ここで本格的に野菜から菊に切り替えたのは私が最初だから、なおさらです。

*河北新報社 KoL netに佐藤さんの記事があります。「農業続ける意欲失わず/宮城県南三陸町中瀬町行政区長・佐藤徳郎さん」(2011年06月05日日曜日)

親の病気や親せきとの付き合い

親父が亡くなったのが平成5(1993)年。病気が見つかったのは平成3(1991)年。前立腺がんでした。
平成3(1991)年、親父は「腰が痛い」と訴えて外科に行っていたのですが、原因が分からなくて内科に行ったんです。そこで「こんな虫栗(栗の実を虫が食った後みたいだ、の意)みたいなのを見たのは初めてだ」と言われました。余命3カ月と聞いたときはショックでした。親父と一緒に住んでいて気付いてやれなかった、っていうものすごい後悔がありました。

仙台厚生病院という肺がんに強い病院を紹介してもらってそこへ連れて行ったら、「泌尿器科はここにはないから、東北大学病院に行ってください」と言われたんです。そこは東北大学の分院になっていました。親父は何回も移るのはいやだと言うので、普通はありえないのだけど、副院長の好意で仙台厚生病院から東北大学病院の泌尿器科に通院させてもらったんです。そこへは一週間に2回、女房が連れて行きました。親父は60日目で退院しました。前立腺がんの治療薬は一つしかなく、当時は女性ホルモンの投与だけでした。しかしこの治療薬を飲むことによって、最終的には血管がぼろぼろになるから、脳梗塞には気を付けたほうがいいと言われていました。そのとおり、親父は最後は脳梗塞で亡くなったのです。78歳でした。

親父が亡くなったのは、お袋が大学病院で腹部動脈溜の手術をした時だったんです。親父の亡くなったことをお袋に悟られないように、病院に行くときには線香の匂いを落として行きました。親父が死んだっていうことはなかなか自分からは言い出せないで、多賀城にいるお袋の弟に話してもらいました。その当時としては珍しく葬儀の様子をビデオや写真に撮って、「こういうような状況で葬儀終わったから」って言ってもらったんです。
平成8(1996)年、お袋も親父と同じ78歳でこの世を去りました。

この辺は田舎だから、結婚式や葬儀もいろんな取り決めがあるんです。まさか急に親父がそんなことになると思っていないから、親父にもどうするかなんてあまり聞いてもいないし、年配の人にしたってきっちり覚えている人は少ないし。外野席は一杯いるけど、きっちりと葬儀を仕切れる人はいなかったんですよ。やり方がわからなくて、批判されました。その時自分で苦労したからそれ以降、従兄弟たちに恥をかかせないようにいろいろ教えておきました。

私のような3代目になると、かなり親戚が増えるから大変なんです。冠婚葬祭も3代分の付き合いに渡ってやるようになります。1代目の関係する人たちは、全国に出ているわけです。八王子にも親戚が3軒あるんですよ。普段は連絡をとらないけれど、そういう時の連絡は間違いなく来ます。全部、礼を欠かさず、冠婚葬祭の誘いには行きましたよ。
親父の病気が見つかってからの10年間は、女房もそうだったと思いますが、ものすごくハードでした。よく乗り切れたと思います。それもね、兄弟が多いから支えられたんだと思う。私の兄弟6人に親父の兄弟は10人いましたし、一人仙台空襲で昭和20(1945)年に亡くなっていますが、その他はみんな所帯を持ってるんです。2~3人の家族で、あの状況を乗り切れるかっていったら、無理だったと思います。

迫る津波、避難はばむ渋滞、時間との戦いの中で

震災の時は、自宅から25kmくらい離れた登米市中田町の卸で花の仕入れをしていました。私は農家をやりながら、花屋もやってるのでね。精算が終わって出ようとしたときに1回目の地震があったんです。2回目の地震がものすごく強かったのね。あれだけの地震があれば津波がくるという予感がしました。

車で避難し始めましたが、米谷(まいや)大橋まで来たときに通行止めに会い、三陸道も通行止め、そこから4~5km下流にある登米(とよま)大橋は幸い通れたので、戻るようにして米谷大橋まで来て、国道398号線を志津川に向かっていきましたが、今度は合同庁舎から300mから500mも行かないうちに交通規制がかかっていました。
ふと川のほうを見たら、そこは右カーブで、私の車がハイエースだったのでよく見えたのですが、瓦礫が流れていたのです。私の後ろに30台ぐらいの車がつながっていたから窓を開けながら「津波だから逃げろ」と叫びました。
本当はそこから200mぐらいを左折して、旭ヶ丘団地に上りたかったのですが、そっちから1台向かってくる車があって、私がその車をやり過ごして高台に上がろうとすれば、後ろの人たちが波に追いつかれる。だから、そこに入らないで、そこから1キロメートルぐらい上流に来て、山道を迂回して八幡川の上流に入って地元に帰ろうと考えたわけです。

けれども、頂上近くで1台の乗用車とすれ違ったの。30代ぐらいの女性がそこから、「波来てるから行っちゃダメ」って言う。自分としては、この辺りの地形はすべて承知していて、無茶はしないからそのまま行けると思ったけれども、次の津波が押し寄せてきていたので、そこでUターンして頂上あたりの土建屋さんの資材置き場に車を停め、山道を歩いて自分の地域に帰ってきたんです。その光景はきっちりと覚えていますね。認識はしているのですが、現実味が乏しい心持(こころもち)がしました。

妻と息子との再会

大雄寺(だいおうじ)さんの駐車場には、車が3~40台上がっていて、部落の人たちも20数人いました。女房は家の近くの別の高台に避難していましたが、息子の姿は見えません。息子は消防団に入っていて、水門の警備にあたっていたので、地震の後水門の警備に行っただろうから、たぶんダメだろうと思っていました。
だけど、もう一か所の避難所に消防自動車が1台止まっているのが見えました。それを見て直感的に、もしかしたら息子は大丈夫かもしれないと感じました。なぜなら、息子は消防車を運転する方だったからです。消防車がそこにあるということは、息子がそこまで運転して上がって来たかもしれない。女房が心配していたので「大丈夫だ。消防車が上がっているということはあの子が運転して来たのだから」と言いました。

息子は津波の晩から1週間ほど捜索活動をやっていたんです。いくら消防団といえども、当時まだ氷点下の気温の中、詰所もないですから、志津川高校の自転車置き場を事務所代わりにしてたそうです。焚火をたいて暖を取ってたらしいのだけども、毛布も何にもないんです。かわいそうでしたよ。息子と会ったのは、津波から1週間経ってからでした。避難所に班長と2人で訪ねてきたときにやっと会えました。
警察車両が、波に追われながらも高台に逃げていて、警察無線が生きていたのと、高台だったので波が引いていくのがわかったのはかなり幸運でした。夜の間にも繰り返し、6~7回津波が来ていたんです。少しでも高いとこへ行こうとしたんだけども、年配者の人たちは疲れていて、「若い人たちだけで逃げろ」と言うんです。「(自分たちは一緒に行かなくて)いい」って言われても、その人たちを高いところに上げないわけにいかない。仕方なく若い人たちに「波の様子を見てきてくれ、本当に危ないようだったら逃げる」と声をかけました。
その晩に地震で火事になったところがあって、その光でどこまで波が来たのがわかるようになったんです。ここなら大丈夫そうだと考えられたので、焚火を焚いて多くの人はハウスの中で一晩過ごしました。本当に早く夜が明けてくれないかなと思っていましたね。そこに避難した人たちと大雄寺さんに避難した人すべての名前は把握しています。

震災当日、70名の方が夜を明かしたビニールハウス

次の日大雄寺(だいおうじ)さんに炊き出しをお願いしました。臼で玄米を撞いて、焚いてもらったり、1軒流されてないところがあって、その奥さんから3合ぐらいの白米をもらって、炊き出ししてもらいました。ひとりに1個しか行き渡らなかったけれど、そのひとつのおにぎりが貴重でした。
お昼頃県警の救助隊が10人来てくれました。大雄寺さんで年配者とその家族は預かるということで24人がそこに残って、後の50人ぐらいは500~600メートル歩いて入谷(いりや)小学校に避難しました。後は県警が乗用車やパトカーでピストン輸送してくれたんです。私が小学校に着いたのは12日の2時過ぎのことでした。

父親としての心情と、区長としての責任と

避難所にきた時点で、まだ次女の消息は分からなくて、心配でした。スーパーに勤めていたのですが、そこの社長があまり普段避難をしない人で、私は心配して、震災の少し前に次女に向かって「社長がどうしようと自分の命なんだから自分で判断しろ」という話をしていたんです。その言葉を次女が受け止めていればたぶん生きてくれている、という感じは持っていました。長女には、次女から無事だというメールは届いていたんですが会えてはいませんでした。実家の兄貴と甥っ子が娘を探しに来てくれました。

こういう時って、情報が錯綜するもんです。情報が全然あてにならないから、顔見知りの奥さん方に、避難所回って部落の人の消息を確かめるのに付き合ってもらえないかと頼んで、次の日3人で避難所を回って部落の人ひとりひとりの消息の確認作業をしました。その次の日にも出かけようとしたら、女房に「自分の娘の消息も分からないのに部落の人がそんなに大事なの?」って言われました。でも、「大事なのは娘も同じだし、娘のことはあんたと実家の兄貴もいるし、私はとにかく部落のことをやる」と言って町に出ました。入谷のコンビニのところの橋を渡って、3人で歩き出した時です。背後から突然、「お父さ~ん」と声がしたんですよ。振り向いたら次女が同僚と一緒にいるじゃないですか。あの時は、本当に、初めて次女を抱きしめましたよ。次女は人に道を訊きながら、山道を2日かけて帰ってきたんです。
避難所では、役場職員がひとり待機していて、小さい電気1つだけを点けていました。誰が訪ねてきてもいいように、私も一緒に2人で一晩寝ずに待機していました。
家族や知り合いは名前だけでなく、顔をちゃんと見て、確認したいと思ってたんですよね。津波の晩、この晩、二晩寝ませんでしたね。

津波の晩ラジオの情報では、南三陸町1万人と連絡が取れないということでした。町長とも、震災から3日たっても連絡が取れなかったんですが、ベイサイドアリーナの避難所に行ったときに、やっと再会してお互い抱き合って無事を確認しました。それが3月14日のことです。最終的には、603人中28人が地域での津波の犠牲者となりました。その中には、「チリ地震の時は大丈夫だったから」と忘れ物を取りに行って犠牲になった方もいました。津波は怖い災害だけども、高いところにさえ登れば絶対怖くない。このことをボランティアに来ている人たちにも話しているんです。

2次避難で鱒淵小学校に

入谷では23日間お世話になりました。
3月26日には役場から、「電気も水道もない状況では生活が大変なので、登米市、栗原市、大崎市に2次避難をしてもらえないか」という話がありました。コミュニティ単位でまとまったところから優先的に移動するということだったんです。世帯主の人に入谷小学校まで来てもらって話をしました。登米の鱒淵(ますぶち)小学校(廃校になった校舎)を指定していたが、そこが当たるかどうか確信は持てなかったから、平行して独自に、登米市津山町にある旧老人ホームの跡地を借りるという話を理事長ともしていたのですが、結果的には登米市東和町の鱒淵小学校に決まり、4月3日に移りました。

それから4か月間鱒淵小学校にお世話になりました。23日目に初めて白い茶碗で白いご飯を食べましたが、あの時の御飯の味は忘れられないですよね。町の人たちに対しては「感謝」の2文字しかありません。いずれ恩返しをしたいと思っています。助かった命は大事にしないといけないし、お世話になった人たちに対する気持ちも大事にしていかないと、人間としての価値はないと思います。

RQとの出会い

私たちはいろんな避難所の中で一番恵まれた避難所だったと思います。
RQの皆さんが朝と夕にやっている班長会議に必ず出てきてくれて、"相談する人もなく即断する"ということをずっとやっていた私にとっては、常に"聞き役になってアドバイスしてもらった"ということが、大きな支えになってきたんです。

皆さんがいなかったら、自分もうまくコミュニティの人々をまとめることができなかったのではないかなと思います。愚痴を聞いてもらって、自分の息子ほどの年齢の人たちに支えられて、乗り切れたんです。お茶っこや足湯で息抜きの場もできました。
100人以上の人が共同生活を送れば当然面白くないことがあるもんですが、息抜きの場があって、そういうことにも耐えていくことができました。ずっと以前から付き合いがあったように思えたし、今こうやってまとまって仮設住宅に来ることができたのは皆さんのおかげ。本当に苦しい中、助けられました。

NHK記者、相澤さんのこと

相澤さんは、NHKの政治部の人で、3月25日から10日間密着取材ということでご一緒しました。この頃、仮設住宅について、県のほうは公共用地にしか建設しないという方針でした。3500世帯分の内、1080世帯分しか建たないということだったんです。
自分としては地元を離れたくないので民有地の活用を願っていたのですが、県に話しても取り付く島もない状況でした。その時に相澤さんに電話して状況を話したら、すぐに国交省の大臣(2011年3月当時は大畠章宏大臣)に「被災地の生の声はこうです」ということを話してくれて、国のほうから県に話があって、今の民有地を使えるようになったんです。
相澤さんがいなかったらどうなっていたか、と思います。後で町長から「あんたが突っ走るのだけが心配だった」と言われました。相澤さんは「私は何もしてない。ただ大臣に繋いだだけです」と言っていたけれど、相澤さんが動いてくれなければ、仮設の建設はもっと遅れ、こんなに早くは実現できなかったでしょう。

多くのマスメディアが押しかけ、迎える南三陸町長と送る登米市長の涙と激励の中、仮設住宅へ

*集団移転を報じる記事が、河北新報社 KoL netにあります。
「地元に仮設 95人が集団帰郷 南三陸・中瀬町区住民」(2011年8月5日)
「高台移転重ねて議論を/宮城県南三陸町中瀬町行政区長・佐藤徳郎さん」(2012年01月29日)

人との出会い

自分は周りの人に恵まれていましたし、区長をやっていて、普通の人たちよりは多くの人と接することができました。
新しい人間関係の構築って大事だなと思います。
すべてを失いましたが、新しい人間関係の構築のほうが失った財産よりも多くのものを得られた気がします。津波がなければ会うこともない人たち、兄弟でもない、親戚でもない人と付き合えるのですから。大変だけれども、そういう人間関係って一つの財産でないかと思っています。私も気は長いほうではないんですが、それでも大きい声を出さずに(ここまで)できたというのは、人間関係に支えられたということだと感じています。(談)

志津川にサクラサク
写真提供:佐藤秀昭「南三陸 海 山 川!」

南三陸 志津川中学校登校坂から 右下に偶然佐藤さんのビニールハウスが
写真提供:佐藤秀昭「南三陸 海 山 川!」

写真提供:佐藤秀昭「南三陸 海 山 川!」

この本は、2011年11月20日、
佐藤徳郎さんが中瀬町仮設住宅集会所にて
お話いただいた内容を忠実にまとめたものです。

[取材・写真]
新垣亜美

[年表]
河相ともみ
織笠英二

[編集協力]
跡部喜美子

[文・編集]
久村美穂

[発行日]
2012年5月5日

[発行所]
RQ市民災害救援センター
東京都荒川区西日暮里5-38-5
www.rq-center.net

コメントは受け付けていません。

Information

投稿日:2012.07.30
カテゴリー:自分史.

3.11被災 4世代同居 8月15日 45号線 1945年7月21日 GHQ JA南三陸 RQ市民災害救援センター SCSミュージカル研究所 あんこ餅 いたこ分け いなご うるし柿道路 おかず おせち料理 おだずもっこ おにぎり おひたし おままごと おやつ お囃子 お寺 お恵比寿さん お盆 お礼奉公 お祭り お茶 お茶っこ お菓子 お蚕 お見合い お金取り かき餅 かくれんぼ かけす かっこ船 かて かてご飯 かてめし かばねやみ かまぼ きな粉 きな粉もち きび きりこ きんとん くわご ごし餅まき ご飯 ご飯組 ささよ さんさん館 しゃれこうべ じゃがいも すかんぽ すみもち そぞめの木 そり だるまさんがころんだ つくしの里 つけ払い つつじ苑 つぶし麦 てなもんや三度傘 ところてん なり物 はっと はまなす はまなすの丘 ひつこ ひまわりおじさん ひまわり温泉 ふくべん ふなだま ふるさと会 ふんどし部隊 ほんにょ めちゃ(結膜炎) もらい湯 もらい風呂 よつこ よもぎ わらじ アイスキャンディー アイスホッケー アイナメ アカハタ アケビ アケボノ アサリ アミタケ アヤメ アワビ アワビの開口 アワビ御殿 アワビ漁 アングロ・ノルマン アンコ イカ イカ釣り イタドリ イチゴ イッポンシメジ イワシ イワシ漁 ウォンビツ ウグイ ウサギ ウサギ追い ウタちゃん ウナギ ウニ ウニ丼 ウニ漁 ウラベニホテイシメジ ウリ ウンクサ エドモンド・ナウマン博士 エビ餅 オキナソウ オート三輪 カカシ カキ カクヤマ カゴ カジカ カジメ カゼ カツオ カツオ漁 カツオ漁船 カツオ船 カナダ カルチベーター カレーライス ガキ大将 ガソリン ガバ キジ キツネ キノコ キノコ採り キノコ栽培 キハダマグロ キャンプ キュウリ クジラ クツワ クヌギ クリ クリスタみやぎ クリスマス雪害 クルミ餅 クロ塗り グミ グランドゴルフ グランドゴルフ協会 グーグル ケッタ ケンケン ゲンジボタル コウ コウカの実 コマ ゴシモチ ゴムはじき サイダー サケ サケの卵の塩漬け サケマス漁 サケ漁 サケ漁の祈祷 サッカー サッパ船 サツマイモ サツマイモの茎 サトウキビ サメ サンマ サンマの油 サンマ御殿 サンマ漁 サンマ船 サン・ファン・バウテスタ号 ザッパ船 シイタケ シカ シベリア抑留 シラス シルバー人材センター シーサイドパレス ジャージ ジョンストン島 スケート スズキ本社 スズメ ストレス スマトラ セリフ神楽 ソバ ソリ ソ連抑留 タカ タコ タタカイ沢 タテゴトアザラシ タヌキ タバコ タバコ(おやつ) タバサミ タピオ タラ チキンレース チフス チャグチャグ馬コ チリ地震 チリ地震津波 ツェッペリン号 ツトコ納豆 テレビ テーラー トウバ トウモロコシ ドジョウ ドジョウの養殖 ドンコ ドンモウ ナマズ ナメコ ナラ ニナガイ ニューギニア ニワトリ ニンジン ハクビシン ハタケシメジ ハノイ ハマ ハヤ ハワイ バコ バス バタンキュー バッタ打ち バフンウニ バブル時代 バンジョ パルプ船 パンスケ ヒエ ヒジキ ヒラタケ ヒラメ ビルマ ビンチョウマグロ ビートルズ フカヒレ フゴ フナ フランス領インドシナ ブランコ ヘリポート ベザーノ ペチカ ホウレンソウ ホウレンソウ部会 ホタテ ホタテのタネ ホタテ養殖 ホタルサミット ホヤ ホルツマーデン ボランティア ボーリング場 マグロ マグロ延縄漁業 マグロ漁 マグロ漁船 マグロ船 マス マツモ マツモの開口日 マラリア マンガ(馬鍬) ミカン狩り ミシンかけ ミヤギシロメ ミュージカル ムラサキウニ メカ メカジキ メカブ削ぎ メバチマグロ メンコ打ち ヤクザ ヤマガカシ ヤマドリ ヤマ学校 ヨシ ヨダワケノミコト ライスカレー ラジオ体操 ランソン ロック ワカメ ワカメのタネ ワカメの芯抜き ワカメ刈り ワカメ拾い ワカメ漁 ワカメ養殖 一の矢・二の矢・三の矢 一反歩 一夜飾り 一歩 一町歩 一畝 一礼 七福神踊り 三井、三菱、峠畜産 三井物産 三公社五現業 三十三観音像 三崎港 三嶋神社 三嶋神社の裏参道 三徳無尽 三本縄 三条小太夫近春 三浦毅 三浦英夫 三陸ホウレンソウ 三陸津波 三陸鉄道 上台ファーム 上品の郷 上山八幡宮 上棟式 上沢分校 上町切 下刈り 下町切 下駄 下駄スケート 不動明王像 中井小学校 中国 中国からのお嫁さん 中国残留婦人 中国残留孤児 中学校 中学校教員 中標津町 中瀬 中瀬町 中舘 中舘平五郎信常 丸太出し 丸目 乾燥ワカメ 予備士官学校 予科練 予科練隊 二十一浜 二本縄 互助会 五日町 井上康生 交通 人間関係 今朝磯 仙北鉄道 仙台 仙台84連隊第12中隊 仙台味噌 仙台市苦竹 仙台軍需工場 仙台銀行 仙石線 代掻き 代用教員 代用食 仮設住宅 仮設校舎 仲人 伊勢 伊勢神宮 伊達家 伊達政宗 伊達藩 伊里前 伊里前の市 伊里前契約会 伊里前小学校 伝統食 伝説 伽藍 低体温症 佐沼 佐藤正信 佐藤正助 体育大会 作並街道 作業小屋 作男 例祭 保健センター 保存食 信用組合 信用金庫 修学旅行 備え 傾城 阿波の鳴門~巡礼歌の段 元旦 元朝参り 兎汁 入谷 入谷小学校 全日本少年武道錬成大会 八幡様 八幡神社 八百万の神 公務員 公民館結婚式 六丸 兼六園 兼業 再建資金 冒険 冠婚葬祭 冬の遊び 冷凍網 出征 出稼ぎ 出笹沢 切り子 刈払い 刈掃い 初任給 刺し網 刺身 剣道 加工団地 加工場 助教 動力船 勤労奉仕 北上川 北洋船団 十三浜 十五夜 千島列島 千歯こき 千葉正海 半農半漁 南三陸町 南三陸町民族無形文化財 南三陸町町議 南寧 南方 南満州鉄道 南部神楽 南郷 参詣 及川甚三郎 友好町 古代装束 古文書 召集令状 可美村 台湾 右もらい、左もらい、カギ持ち 合併 合併協議会 合祀餅 吉三郎沢 吉野沢 名足 名足小学校 名足浜 向洋高校 味噌 味噌汁 品陀和氣命 哈爾濱 唐桑 唐桑尋常小学校 唐桑小学校 商工会 喜多流 喧嘩 四海波 回遊魚 囲炉裏 囲炉裏端 国民学校 国立海上技術短期大学校 国立清水海員学校 国際交流 国際交流協会 国際魚竜化石サミット 土俵作り 土葬 地主 地域振興協議会 地場産業 地方銀行 地鎮祭 地震 地駄引き 坂上田村麻呂 垂下式 堤防 塩入 塩水選 塩蔵ワカメ 塩釜 塩釜神社 増産隊 壇ノ浦 壊邑館 夏休み 外国人留学生 外材 多賀城歴史資料館 多賀城資料館 大害沢 大工 大工見習い 大日如来 大東亜戦争 大根 大根おろし 大根の葉 大漁旗 大漁祈願 大畠章宏国交省大臣 大盤峠 大祭 大網 大胴太鼓 大蔵流 大規模半壊 大謀網漁 大谷 大谷地区 大谷小学校 大谷海岸 大谷金山 大谷鉱山 大豆 大連 大連鉄道学院 大雄寺 大麦 天保年間の津波 天宇受売尊 天岩戸開き 天津児屋根尊 天然ワカメの干し場 天然記念物 天照大神 天照皇大神宮 天狗の面 天皇 天皇陛下バンザイ 天草 天草つき 天草の開口 太平洋戦争 太鼓 奉公 奉公袋 奉天 契約会館 契約講 奥尻 奥州藤原氏 奥浄瑠璃 女の沢 女学校 女川防備隊 妙音寺 嫁入り 子どもの遊び 子供キャンプ 孝子お筆重次郎 学制発布 学徒動員 学頭 宇佐八幡宮 宇佐神宮 安倍貞任 安東 安波トンネル 定置網 実習操業 実習航海 実習船 宮司 宮城丸 宮城球場 宮城県教育委員会 宮城県本吉響高等学校 宮城県水産高校 宮城県津谷農林学校 宮城県津谷農林高等学校 宮城県津谷高等学校 宮城県社会福祉課 宮城県神社庁 宮城県青年団連絡協議会 宮城農学寮 宮城野原総合運動場 宮城野青年学校 宮大工 宵月 家畜保険 家畜商 家畜車 家督 寂光寺 寄木 寄木仮設 密漁 密航船水安丸 寺子屋 将棋クラブ 尋常小学校 尋常高等小学校 小作人 小名浜港 小型船舶免許 小学校 小屋の沢 小林司教 小正月 小泉 小泉の歴史 小泉の祭り 小泉の花火 小泉中学校 小泉八幡様 小泉八幡神社 小泉城 小泉小学校 小泉幼稚園 小泉進次郎 小漁 小豆餅 小野寺弘司 小鯖 小鯖神止まり七福神舞 少年兵 少年剣道会 就職列車 屋号 屋島合戦 山の幸 山伏 山伏神楽 山内家 山内盛 山学校 山師 山林 山背 山菜 山菜採り 岩戸開き 川魚 巡礼おつる 巡視員 工業団地 巨人、大鵬、卵焼き 巨釜半造 差網 市町村合併 布刀玉尊 幌羽山 幣価切り下げ 幣束 干しアワビ 干し柿 干し芋 干し蛸 平成の大合併 平成の森 平成の森仮設 平泉中尊寺金色堂 平磯 平磯虎舞 広瀬高校 広葉樹 庄内市 庄内町 庄屋 床屋 座敷まわり 延縄 建前 廻館 弁当 弁慶 弁慶に刺す 弟家督 弥惣峠 弥惣峠~入谷ルート 彌勒寺 後藤寿庵 御天王山 御天皇山 御崎さん 御崎神社 御幣束 御神入れ 御薬師 御開帳 復旧 復興 復興への想い 復興市 復興庁 復興担当大臣 復興需要 徳恵 徳陽シティ銀行 徴兵 徴兵検査 徴用工 徴用船 德陽無尽 德陽銀行 志津川 志津川の大火 志津川の蛸 志津川中学校 志津川会 志津川実科女子高等学校 志津川実科高等女学校 志津川小学校 志津川湾 志津川町 志津川病院 志津川駅 志津川高校 志津川高等学校 愛宕神社 慈恵園 慶長地震津波 慶長地震津波伝承地 戦中 戦争 戦後 戦後の給料取り 戦後の食糧難 戦時下 戦時中 戦時徴用 戦死 戸倉 戸倉村 戸倉村尋常小学校 手仕事 手力男尊 手漕ぎ船 指物大工 振興会 振興無尽会社 振興相互銀行 振袖 挺身隊 捕虜 捕鯨船 揚縄 支倉常長 支援物資 支那事変 放射能 救援物資 敗戦 教員 教科書 教育勅語 文化財 斗組 料理 新井田館跡 新井田館跡発掘作業 新制中学校 新田次郎 日中戦争 日掛け金 日本よい国、東の空に 日本人学校 日本武道館元館長 日本語講座 日本陸軍 日本青年団連絡協議会 日給 日銭 日門 日露戦争 旧仙台藩 早生八幡 昆布 昆布の開口 明治29年三陸津波 春の大祭 昭和8年三陸津波 暖飯器 暴れ神輿 曲尺 月俸 月夜 月給 望小山 朝塩釜神社 朝日館 木の実 木価 木地蔵 木挽き 木材 木炭 木炭組合 木馬 末期の水 本吉 本吉地区冷害基金 本吉町 本吉町国際交流協会 本吉町連絡協議会 本吉響高校 本吉響高等学校 材木 村葬 条桑育 東京・四谷区 東京人絹 東京第一陸軍造兵廠仙台製造所 東北の長崎 東北博覧会 東北大学災害科学国際研究所 東北大学災害科学研究所 東北最大のフリーマーケット 東北本線 東北歴史資料館 東和林業組合 東和町 東和鱒渕 東日本鉄道文化財団 東稜高校 松原 松原そうじ 松圃 松島 松林 松根油 松笠 松茸 林業 柳州 栄養失調 栗原郡 桂林 桃山時代 桃生 桑の実 桑畑 梅ッコ 梅干 梅干し 梶賀千鶴子 棒受け網 森口多里 森林組合 検閲 樋の口大家 横座(上座) 横須賀 横須賀海軍 横須賀海軍カレー 機関員 機関士 檀家 歌津 歌津・志津川合併 歌津中学校 歌津会 歌津十二人衆 歌津寄木ささよ整備事業 歌津敵討 歌津村葬 歌津町 歌津町史 歌津町小学生ミュージカル 歌津町議会 歌津町長 歌津町青年団 歌津駅 歌津魚竜化石 歌生 正月 正月料理 正月飾り 歩兵第四連隊 死に装束 死人もの 母屋づくり 氏子 氏子総代 氏神 民族歌舞団ほうねん座 民話 気仙パン 気仙大工 気仙沼 気仙沼ジャスコ 気仙沼市 気仙沼市教育委員会 気仙沼市立病院 気仙沼湾 気仙沼線 気仙沼西高校 気仙沼高等学校 水夫 水害 水戸辺川 水戸辺川上流 水戸辺川上流津波最終到達点 水産業 水産特区 水産高校 水産高校実習船 水田 水眼 水遁の術 水道 決死隊 沢庵 河童 沼エビ 沼深 沿岸漁業 泊崎荘 泊浜 法印神楽 波来の碑 泣く子も黙る原兵団 注連縄 津山杉 津波 津波をかぶった杉 津波伝承 津谷中学校 津谷川 津谷高校 浄瑠璃 浅縄 浜の神楽 浜・町・在 浜松の織物工場 浦賀 海上保安庁 海南島 海員学校 海水浴場 海洋実習 海洋観測 海苔 海苔漁 海苔簀 海苔網 海苔養殖 海藻 海鵜 消防団 深縄 清水寺 清水浜 渋柿 温泉 満州 満州の花嫁募集 満洲の温泉 満海山 満蒙開拓団 満鉄 満鉄工務区 源氏 源義家 源義経 源頼光 源頼朝 漁労長 漁協 漁師 漁業 漁業協同組合 漁業権 漁業者 漁民 漁船 演芸会 漬物 潜り漁 潜水器操業 潜水士 潜水漁 瀋陽 瀬峰小学校 火の用心 火まわり 火事 火災 火葬 灰干しワカメ 炭炬燵 炭焼き 炭窯 無尽 焼津 煮もの 煮物 熊ヶ根橋 熊岳城 熊岳城ホテル 熊谷流の踊り 燻製 爆弾 牛殺し沢 牛肉 牡蠣 牡蠣剥き 牡蠣殻処理場 牧之内城 牧野駿 物々交換 特区 狩猟 献膳 献膳係 献膳長 獅子舞 獅子頭 玉の井 玉子柿 玉音放送 理容師法改正 瓦屋 瓦工場 瓦礫 生態系 生活相談員 生涯教育課 生糸 田の字造り 田の浦 田んぼ 田中則和 田束の夜明け 田束山 田植え 田老町 町切 畜産 畜産農家 疎開 疎開工場 登米 登米市 登米郡南方町 登米高女 白山様 白山神社 白無垢 白砂青松 白菜 白装束 白馬童子 百貨店 皿貝化石 皿貝化石群 直売所 相互銀行 真言宗 矢車 石巻 石巻北高校 石巻港 石浜 石浜神楽 砂湯 砂糖 硫黄島 磯漁 社寺建築 祇園神社 祝い事 祝儀 神棚 神楽 神様参り 神社 神社本庁 神輿 神飾り 祭り 祭典 祭典日 福島丸 福島原発 秋の大祭 種はさみ 稲作 稲八幡 稲刈り 稲荷寿司 空襲 空襲警報 立川町 立棺 竹スキー 竹川原 竹槍 竹馬 竹駒神社 第三次補正 第二地方銀行 第二次世界大戦 筍の皮 算盤 管の浜 築館 米作り 米俵 米川 米川の教会 米川小学校 米川村 米川狼河原綱木の沢 米広 米穀通帳 米谷工業高校 米軍 粟餅 精米 納豆 納豆餅 紙のランドセル 素干しワカメ 素戔鳴尊 素潜り 紡績工場 細浦 細浦生活センター 終戦 終戦の日 終戦後 経塚 経塚遺跡 結いっこ 結する 結婚 結婚式 結納 給食 綏化 総代 総本 総本宮 総本山 編み物 縁起物 縄とび 縄跳び 縫製工場 缶詰工場 缶蹴り 羽織袴 羽黒山 老人会 老人保健施設 老人養護施設 肥料 脱脂粉乳 腸チフス 自動乾燥機 自給自足 自衛隊 興業銀行 舘崎の浜 舞根 舟沢 船名旗 船員 船大工 船子 船川丸 船舶免許 船酔い 船頭 艤装 艦砲射撃 色彩選別機 芯抜き 花火 芸能部 苗代半作 茄子 茱萸(ぐみ) 草もち 草履 草餅 荒島 荷鞍 菊の御紋 華南高校 華足寺 華足寺参道整備事業 華足寺大祭 華足寺大祭のお供え 華足寺大祭の演芸会 華足寺馬頭観音堂 落ち武者 葉タバコ 葛西四百年 葛西家 葫蘆島 葬儀 葬式 蒸気機関車 蕎麦 蕎麦粉 蕨野 薪ストーブ 藁穂沢 藁草履 藤の蔓 藤原征伐 藤原氏 藤原秀衡 虎舞 蛸の渦巻 蝦夷地 蝦夷狩 行商 行政区長 行方不明 衡陽 衣川 衣料切符 被災地 被災後 裁縫 裏杉・表杉 裏目 裏観音様 補充兵 補助金 製材所 製糸工場 製鉄 西戸 西條實 西條實短歌集 要谷 観世流 観音像 角田市 解体ショー 許家屯 誉田別命 語り部さん 請負耕作 豆もち 豆餅 豊前宇佐八幡宮 豊漁祈願 貞任山 買い物 赤崎 赤痢 赤紙 足湯 踏み絵 蹄鉄 軍人勅諭 軍人恩給 軍国の母 軍用犬 軍需工場 軍需物資 輪尺 輸出 農作業 農協 農地解放 農家 農家預金 農林業 農林水産大臣賞 農業 農業共済制度 農業共済組合 農業委員 農業改良試験場 農業災害補償法 農業研修 農民講道館 農閑期 迫川 追い馬 這坂 通り囃子 造兵廠 造幣局 造船 造船所 連絡協議会 進学 進駐軍 遊園地 運送事業 道中囃子 遠の木沢 遠洋漁業 遠藤美希 遺体 避難 避難所 避難生活 避難訓練 郵便局 郷土探検 郷土芸能 郷黒 配給 配給制度 酒井農寮 酒井馨 酒屋 酪農 野戦病院 野球 野菜 野菜研究会 金の卵 金峰寺 金華山 金鉱 金靴屋 釜神様 針葉樹 釣り 鉄嶺 鉄砲 鉄砲風呂 銀鮭 銀鮭養殖 鍋焼き 鍬頭 長の森寺 長沙 長沼 開口 開戦の詔 間伐 関東軍咸陽 防波堤 防潮堤 防災庁舎 防災無線 防犯実動隊 防空壕 阿部井組 陣取り 除草機 陸中海岸 陸前原町駅 階上 隠れキリシタン 雁月 雄飛小学校 集団就職 集団移転 雑煮 電報 電話 震源地 霞ヶ浦 青大将 青年の家 青年の船 青年会 青年体育大会 青年団 青年団長 青年学校 青年文化祭 青年部 青森丸 青空工場 青色申告会 鞍薦 響高校 須賀神社 頼光寺 頼母子講 風呂 食べ物 食事 食糧難 飯土井 飯綱神社 飴餅 餅まき 養殖 養殖ワカメ 養蚕 養蚕の神様 館城 館崎 香林寺 馬っこ 馬の足 馬喰 馬捨て場 馬橇 馬糞拾い 馬車 馬追 馬鍬 馬頭観音 高台 高台移転 高射砲 高島田 高度成長 高度経済成長 高砂や 高等小学校 高野会館 髪結い 魚屋 魚竜 魚竜化石 魚竜太鼓 魚竜舞 魚竜館 魚艙 魚釣り 鮎釣り 鮪立 鱒淵 鱒淵の5さん 鱒淵の5ちゃん 鱒淵小学校 鱒淵源氏ホタル保存会 鱒渕野球クラブ 鳥越沢 鳴子中山ラドン温泉 鳴子温泉 鴇波神楽 鹿折 麦ごはん 黄金郷 黒毛和牛 黒豆 黒部の太陽 鼎が浦高等学校

地域の歴史や文化